パンツの衝撃
そうして彼は果てしないナゾのうちに身を沈めることを願っている。そうしてその法悦の境地を人に分け与えることを。
そうすることによって、彼は世界と一体化する没我の境地を見出す。
彼はそのナゾを探索することによって、ナゾと一体となり、ついにはナゾを解消する。なぜなら、ナゾに同化した観察者にもはやナゾは存在しない。彼はナゾそのものとなり、ナゾはそのベールを取って一体としての真の姿を現すからだ。ユニバース。下着は媒介に過ぎない。
彼は私を全共闘世代と呼び、自分を禅共闘であるといった。
(かつて)私は本番女優と同じと言われた。その映画を撮った監督と同じとはいわれなかった。
なぜならその表現は全て空想により、現実の女性が関係していないので、すべて私にオブリッジドすると見なされるのである。
X氏は「淡泊だ」という。強いてセックスしたいと思わないという。ただ期待に応じるだけだと。つまり彼は本番女優と見なされなくて済む。カッコイイ監督の立場にある。
人はそれぞれに異なった性格を持つ。けれどこのように自分を綺麗な場所におく姿勢、理性の範囲に保とうとする姿勢に、後ろ指を指されてオドオドしていた私の心は賛成できない。
キレイ事ではないと責めてくる遅れてついてくる文化に立ち向かうのがアーチストの役割だと思う。
私も好き者であるというレスポンシブルな姿勢こそが大事ではないか。私を私と知らないで、私に漏らした関係者の言葉を思い出す。「日影さんですか? あの人はスカートの中のパンツを覗きたい男は多いけど、それを表現してしまったのはあの人だけで、彼よりも他に過激な人は居ますか?」と言ったのである。私はフォーカスに「のぞき」と副題をつけられた。けれど、0次元の加藤が「私は日影の絵によって、はじめて女にも欲望があることを知った」と言ったように、常識に反した事実を伝えようとしたに過ぎない。
のぞいたのではなくて、のぞかせていた自己主張する私と同時代を生きていた日本の娘たちを描こうとしていたのだ。

日影 眩 ブルータス誌 1983/6/15号 新学問のすすめ
私たちのカルチャーを構成する構成員によって合意されたその内容は常に現実の社会の変貌と大きなずれをはらむ。現実がこのように変わっているのだと示して覚せいを促すことは、カルチャーの転換を促す常にあらゆる時代のアートに課せられた仕事だ。
そのずれが大きい時、そのカルチャーに住む人々のコミュニケーションは不協和音が高まり、人々は幸せではない。世の中の変貌を告げることこそアーチストの大事な役割だ。
だが、私は今も「公務員や芸能人が女学生のスカートの中をビデオに撮って逮捕されているのに、その元祖であるあなたは逮捕されないのか?」と言われるように興味本位に品性下劣な男として扱われる場合が多かった。私には生きた女性のモデルという生け贄がなかったからである。

コミケ77(東京ビッグサイト)会場に張られたポスター 2009/12/31
逆説的だが、女にも欲望があるように男に欲望があることも、自然の一部なのである。そうして、あらかじめそれは人間が作った世界との間にずれを生む。
衣を脱いだ時に果てしないナゾが現れるのだ。そうしてあなたは自我を失う。
作家は果てしないナゾを探索することによって解脱を意図し、それを観客に与えようと願う。
「閉じようとする大地と開こうとする世界が争うその争いの内に一つの<広場>が生まれる」とハイデガーは言った。その広場を求めて、その広場を<ゆらめき>とX氏は言う。
一方に自然一方に文化をおけば、ポインター(指針、自我の位置)は常にゆれ動く。
人生それ自体、アート作品であり得る。これが現代美術のもっとも急進的な主張である。Life itself might be a work of Art. That is modern art’s most radical proposition.─マイケル・キンメルマン
アートは絵やドローイングである必要はない。一人のアーチストの行動と発言のやり方であり得る。
性の社会的抑圧から解放し、<性器性欲の優位性>を確立して健康なオルガスムスの体験能力を獲得することこそ健康の基盤である─ウイルヘルム・ライヒ
「すべての人間は<性欲>(リビドー)に支配される」「すべての人間はオルガスムスを求めて生活している」─フロイト
神経症に悩むオールドミスの患者にマスターベーションを勧めた。これはすべての人間が嘲笑したボディワークの始まりとされる。
ユング、元型を提唱(古来からの神話、伝説、昔話などと共通の基本的パターンの上に成り立つとして)心の世界に個人的無意識と普遍的無意識の二つの層、後者に全人類に共通の元型があるとする。
すべての人間は「見たい」と感じるものを見ることが出来る本能を持っているとし「宗教と性は、同じテーブルにただ座っているもの」として捉えた。
人類において性はより高次元に「象徴的」次元にまで進化した。(性の衝動:新実存主義への道)─コリン・ウイルソン
至高体験、性の無性化こそが人間の進化。一貫するテーマは「退屈な日常からの脱出」
(この文は、その辺に転がっていたメモ帳の中に書かれていたメモである。恐らくはX氏の批評文を書くためのメモで、2002年12月頃のものと思われる。今見て面白いと思えたので、手を加えずそのまま転用した。なおX氏は、スカートの中のパンティを下から写真に撮り、或いは天井からパンティをぶら下げるインスタレーションなどを行っていた40代の日本人作家でニューヨークでは有名であり、あるギャラリー・ディレクターから私は「あなたが彼にグレート・インフルエンスを与えたのではないか?」と言われたことがあった。最後に書き加えれば「われわれの宗教、道徳、哲学は、人間の頽廃形態である。─反対運動は芸術」─ニーチェ)
そうすることによって、彼は世界と一体化する没我の境地を見出す。
彼はそのナゾを探索することによって、ナゾと一体となり、ついにはナゾを解消する。なぜなら、ナゾに同化した観察者にもはやナゾは存在しない。彼はナゾそのものとなり、ナゾはそのベールを取って一体としての真の姿を現すからだ。ユニバース。下着は媒介に過ぎない。
彼は私を全共闘世代と呼び、自分を禅共闘であるといった。
(かつて)私は本番女優と同じと言われた。その映画を撮った監督と同じとはいわれなかった。
なぜならその表現は全て空想により、現実の女性が関係していないので、すべて私にオブリッジドすると見なされるのである。
X氏は「淡泊だ」という。強いてセックスしたいと思わないという。ただ期待に応じるだけだと。つまり彼は本番女優と見なされなくて済む。カッコイイ監督の立場にある。
人はそれぞれに異なった性格を持つ。けれどこのように自分を綺麗な場所におく姿勢、理性の範囲に保とうとする姿勢に、後ろ指を指されてオドオドしていた私の心は賛成できない。
キレイ事ではないと責めてくる遅れてついてくる文化に立ち向かうのがアーチストの役割だと思う。
私も好き者であるというレスポンシブルな姿勢こそが大事ではないか。私を私と知らないで、私に漏らした関係者の言葉を思い出す。「日影さんですか? あの人はスカートの中のパンツを覗きたい男は多いけど、それを表現してしまったのはあの人だけで、彼よりも他に過激な人は居ますか?」と言ったのである。私はフォーカスに「のぞき」と副題をつけられた。けれど、0次元の加藤が「私は日影の絵によって、はじめて女にも欲望があることを知った」と言ったように、常識に反した事実を伝えようとしたに過ぎない。
のぞいたのではなくて、のぞかせていた自己主張する私と同時代を生きていた日本の娘たちを描こうとしていたのだ。

日影 眩 ブルータス誌 1983/6/15号 新学問のすすめ
私たちのカルチャーを構成する構成員によって合意されたその内容は常に現実の社会の変貌と大きなずれをはらむ。現実がこのように変わっているのだと示して覚せいを促すことは、カルチャーの転換を促す常にあらゆる時代のアートに課せられた仕事だ。
そのずれが大きい時、そのカルチャーに住む人々のコミュニケーションは不協和音が高まり、人々は幸せではない。世の中の変貌を告げることこそアーチストの大事な役割だ。
だが、私は今も「公務員や芸能人が女学生のスカートの中をビデオに撮って逮捕されているのに、その元祖であるあなたは逮捕されないのか?」と言われるように興味本位に品性下劣な男として扱われる場合が多かった。私には生きた女性のモデルという生け贄がなかったからである。

コミケ77(東京ビッグサイト)会場に張られたポスター 2009/12/31
逆説的だが、女にも欲望があるように男に欲望があることも、自然の一部なのである。そうして、あらかじめそれは人間が作った世界との間にずれを生む。
衣を脱いだ時に果てしないナゾが現れるのだ。そうしてあなたは自我を失う。
作家は果てしないナゾを探索することによって解脱を意図し、それを観客に与えようと願う。
「閉じようとする大地と開こうとする世界が争うその争いの内に一つの<広場>が生まれる」とハイデガーは言った。その広場を求めて、その広場を<ゆらめき>とX氏は言う。
一方に自然一方に文化をおけば、ポインター(指針、自我の位置)は常にゆれ動く。
人生それ自体、アート作品であり得る。これが現代美術のもっとも急進的な主張である。Life itself might be a work of Art. That is modern art’s most radical proposition.─マイケル・キンメルマン
アートは絵やドローイングである必要はない。一人のアーチストの行動と発言のやり方であり得る。
性の社会的抑圧から解放し、<性器性欲の優位性>を確立して健康なオルガスムスの体験能力を獲得することこそ健康の基盤である─ウイルヘルム・ライヒ
「すべての人間は<性欲>(リビドー)に支配される」「すべての人間はオルガスムスを求めて生活している」─フロイト
神経症に悩むオールドミスの患者にマスターベーションを勧めた。これはすべての人間が嘲笑したボディワークの始まりとされる。
ユング、元型を提唱(古来からの神話、伝説、昔話などと共通の基本的パターンの上に成り立つとして)心の世界に個人的無意識と普遍的無意識の二つの層、後者に全人類に共通の元型があるとする。
すべての人間は「見たい」と感じるものを見ることが出来る本能を持っているとし「宗教と性は、同じテーブルにただ座っているもの」として捉えた。
人類において性はより高次元に「象徴的」次元にまで進化した。(性の衝動:新実存主義への道)─コリン・ウイルソン
至高体験、性の無性化こそが人間の進化。一貫するテーマは「退屈な日常からの脱出」
(この文は、その辺に転がっていたメモ帳の中に書かれていたメモである。恐らくはX氏の批評文を書くためのメモで、2002年12月頃のものと思われる。今見て面白いと思えたので、手を加えずそのまま転用した。なおX氏は、スカートの中のパンティを下から写真に撮り、或いは天井からパンティをぶら下げるインスタレーションなどを行っていた40代の日本人作家でニューヨークでは有名であり、あるギャラリー・ディレクターから私は「あなたが彼にグレート・インフルエンスを与えたのではないか?」と言われたことがあった。最後に書き加えれば「われわれの宗教、道徳、哲学は、人間の頽廃形態である。─反対運動は芸術」─ニーチェ)
続・かゆいかゆいはなし-ヒゼンダニ
もうかなり前のことになるが、「かゆいかゆいはなし」の結末を書いてなかったので,書くことにする。あの時いつまでも治らないので,ふとやはり虫ではないかと思いついて,ネットでいろいろ調べてみたら,「ヒゼンダニ」の感染症状に近いと気が付いた。つまり赤い湿疹が広がって,そこにどんな皮膚病の薬、塩、アルコールなどを塗っても効果がほとんどない。しかし確かに塩入りの熱い風呂に入ったときに効果があった。塩の効果がないのなら,熱が効いたわけである。説明によればヒゼンダニは0.35ミリくらいで、目には見えず,人の肌に住む。体温から大きく外れる温度では生きられないとある。メスは皮膚の下にトンネルを掘ってそこで産卵し,卵は3-4日で孵る。穴にフンもするので、痒みは一種のアレルギー反応という。この虫の発生は二種あり、普通は千匹以下の発生で、セックスの場合のように身体を接触させなければ感染しないが,ノルウエイ型の場合は数百万匹も発生して,皮膚と一緒に床に落ちて他の人に感染する。日本でも養老院などで集団発生する場合があるという。
英語ではこれをイッチーマイトと呼ぶ。薬局に行って聞いてみたら,そのための薬は医師の診断書が必要だ。市販されているのは,子供のケジラミ用の塗り薬くらいである。シラミもダニも同じ種類と薬剤師が言うので,ケジラミ用の塗り薬を買ってきて,皮膚にすり込んだ。数時間後に必ず洗えという薬剤師の注意を無視したら,その部分が火傷したようになって慌てた。けれどそれと後は熱湯では10分も生きられないという説明があったので,我慢ぎりぎりの熱い風呂に10分間浸かって,ぶっ倒れそうになるほどのぼせたが,それを繰り返して何とか症状が徐々に改善した。
ところが後でそのイッチーマイトを私に感染させた友人の情報が伝わってきた。私のアパートの裏にコミュニティガーデンがあって、付近の住民が野菜を作っている。彼は家族でそこのメンバーになっていたのだが、そこを1年間出入り禁止にされたという。理由は冬の間、浮浪者二人を連れて,ガーデンの物置小屋に出入りしていて,近所の住人に警察に通報された。メンバーの一人が調べてみたら,小屋の中に寝袋と衣類があり、壁には子供の絵が飾られ,絵本やぬいぐるみがあり,食器類や食べ残しの他、酒の空き瓶がある。その空き瓶はなぜか全部高級酒のものだったらしい。メンバーは1人で悪臭を放つ小屋で全てのがらくたをゴミ袋に移して,処分したという。この話にはまだ後があって,その小屋で大便もしていたという。冬は寒かったからではないかというが,その小屋に寝泊まりしていたわけだから日本人には理解できない。西洋人は部屋に壺を置いてそこで大便もしていた歴史がある。カルチャーの違いというのはこれくらいもの凄いものがある。
ガーデンの物置小屋
「あの部屋に原因があるのかと思う」と彼が口を滑らせたことがある。あの部屋は彼の狭いアパートの部屋だろうと早とちりしていた。ガーデンの物置で浮浪者と寝泊まりして,ヒゼンダニを大発生させていたのである。今では彼と完全に関係が切れた。彼の奥さんは,元は私の友達なのだが,「アルコーリックとして(といったかどうか定かではないが)大事なところなのに皆がよってたかって彼を追い出した。訴える。」というEメールをガーデンの委員会に出したということである。しかしもし裁判になって,子供を育てるのに資格に問題があると判明したら,子供の養育権を取り上げられてしまうかも知れないだろう。それがアメリカという契約で成り立つ移民の国の怖いところだろう。
ところでヒゼンダニというのは私の推測で,医師の診断があるわけではない。治癒したから良しとするのである。それとこの文を載せようとして心理的に抵抗感があったのは彼がいつも不安定でしばしば約束を守らなかったということはあっても,いつも心優しく,また映画やマンガ、アートを愛する好青年だったという記憶があるからである。酒と貧困と、その優しさが彼を孤立に追い込んでいったと思う。今どこでどうしているか、このところは出会っていない。
英語ではこれをイッチーマイトと呼ぶ。薬局に行って聞いてみたら,そのための薬は医師の診断書が必要だ。市販されているのは,子供のケジラミ用の塗り薬くらいである。シラミもダニも同じ種類と薬剤師が言うので,ケジラミ用の塗り薬を買ってきて,皮膚にすり込んだ。数時間後に必ず洗えという薬剤師の注意を無視したら,その部分が火傷したようになって慌てた。けれどそれと後は熱湯では10分も生きられないという説明があったので,我慢ぎりぎりの熱い風呂に10分間浸かって,ぶっ倒れそうになるほどのぼせたが,それを繰り返して何とか症状が徐々に改善した。
ところが後でそのイッチーマイトを私に感染させた友人の情報が伝わってきた。私のアパートの裏にコミュニティガーデンがあって、付近の住民が野菜を作っている。彼は家族でそこのメンバーになっていたのだが、そこを1年間出入り禁止にされたという。理由は冬の間、浮浪者二人を連れて,ガーデンの物置小屋に出入りしていて,近所の住人に警察に通報された。メンバーの一人が調べてみたら,小屋の中に寝袋と衣類があり、壁には子供の絵が飾られ,絵本やぬいぐるみがあり,食器類や食べ残しの他、酒の空き瓶がある。その空き瓶はなぜか全部高級酒のものだったらしい。メンバーは1人で悪臭を放つ小屋で全てのがらくたをゴミ袋に移して,処分したという。この話にはまだ後があって,その小屋で大便もしていたという。冬は寒かったからではないかというが,その小屋に寝泊まりしていたわけだから日本人には理解できない。西洋人は部屋に壺を置いてそこで大便もしていた歴史がある。カルチャーの違いというのはこれくらいもの凄いものがある。
ガーデンの物置小屋「あの部屋に原因があるのかと思う」と彼が口を滑らせたことがある。あの部屋は彼の狭いアパートの部屋だろうと早とちりしていた。ガーデンの物置で浮浪者と寝泊まりして,ヒゼンダニを大発生させていたのである。今では彼と完全に関係が切れた。彼の奥さんは,元は私の友達なのだが,「アルコーリックとして(といったかどうか定かではないが)大事なところなのに皆がよってたかって彼を追い出した。訴える。」というEメールをガーデンの委員会に出したということである。しかしもし裁判になって,子供を育てるのに資格に問題があると判明したら,子供の養育権を取り上げられてしまうかも知れないだろう。それがアメリカという契約で成り立つ移民の国の怖いところだろう。
ところでヒゼンダニというのは私の推測で,医師の診断があるわけではない。治癒したから良しとするのである。それとこの文を載せようとして心理的に抵抗感があったのは彼がいつも不安定でしばしば約束を守らなかったということはあっても,いつも心優しく,また映画やマンガ、アートを愛する好青年だったという記憶があるからである。酒と貧困と、その優しさが彼を孤立に追い込んでいったと思う。今どこでどうしているか、このところは出会っていない。
「♪あの頃のこと夢みたい♪-藤尾勝治郎展」
グラフイックデザイナーの粟津潔氏が亡くなった。80歳、肺炎である。私が青雲の志に燃えて上京した頃、粟津氏はグラフイックデザイン界の若手スターの1人だった。田中一光氏には紹介されて何度か自宅を訪ねて教えを受けたことがあったが、粟津氏とは面識がなかった。私がデザイナーの道を歩み始めていた頃、大阪のデパートに日宣美展を見に行ったが、そこで第一回日宣美賞を受賞した粟津氏のポスター「海を返せ」に強い印象を受けた。
最近、日宣美の大阪出身デザイナーの代表者ともいうべき早川良雄氏が亡くなられたばかりだ。昔私の友人だった庄田進君(大阪万博に向けて地下鉄工事中の天六でガス爆発に巻き込まれて死去)が、私を大阪のカロン洋裁研究所内にあった早川氏のスタジオに連れて行ってくれたことがある。もう押入れかと思うくらい狭いスタジオで机が三つほど並んでいて、アシスタントも留守で早川氏に紹介され損ねた。庄田君は早川氏を尊敬していて、実際に早川氏の紹介でスモカ歯磨きの宣伝部に勤めていた。しかし私は多分その後かも知れないが、所属していた神戸のデザイナーグループ「ノン」が早川氏を呼んで兵庫県立美術館の一室で話を聞いた時に彼に会った。その時に「具体の吉原治郎氏に会って聞いてみたら、観客を驚かせたいというので、それなら会場でションベンすればいいじゃないかといった」という話がいつまでも記憶に残って、他の話は忘れてしまった。当時関西では「具体」は一面ではからかいの対象になっていたと思う。ずっと後に早川氏が東京に事務所を移し、そのデザインスタジオの責任者を神戸時代の仲間であった灘本唯人氏が引き受けたので、訪ねていったとき、早川氏は私を認めて会釈された。名前も知られないままになった。
粟津氏の仕事でもう一つ印象に残っているのは、小林正樹監督の映画「怪談」のタイトルバックだ。映画のストーリーは忘れてしまったが、水の中にカラーのインクか絵の具を垂らしてその色の煙が舞い上がる映像はその効果的なおどろおどろしいバックグラウンドミュージックと共に未だに覚えている。この仕事にも見られるように彼は単に造形作家ではなかった。これまであまりそのように考えたことはなかったのだが、私にとってはその作品がもっとも強い印象を与えた先行する若手グラフィックデザイナーであったようだ。実際に後に私は法政大学の哲学科に進学したのだが、その場合に、子供の頃関西で、ラジオで聞いて強い印象を受けた甲子園での法政一高の優勝や、当時とみに美学者として高名であった哲学科教授、谷川哲三氏の存在がその動機であったが、今にして思えば法政大中退で、芸大他、美術大学卒業者に混じって、しかもそのトップを走る粟津氏の存在が一番大きく影響したと思う。ご冥福をお祈りする。
藤尾勝治郎 花火(大観覧車)油彩F10号 1995
さて今ちょうど、私の実弟の藤尾勝治郎が、生まれ故郷の兵庫県小野市の市立好古館で、回顧的な個展「郷土ゆかりの画家-藤尾勝治郎展」を開催中である。(5月10日まで)その展覧会の手引きの経歴に、実兄(日影眩、画家、現在ニューヨーク在住)の元へ商業美術の見習いとして弟子入りした、とある。それを読むとちょっと心が痛んだ。そういえば弟がやってきて、喫茶店で「デザインを教えてくれ」と熱心に頼んだことを思い出す。「兄貴は19歳で俺は17歳だった」といった。神戸の新開地の二階建ての安アパートの4畳半一間の部屋に、弟は二人分の弁当を持って通ってきて、夜は夜間高校に通った。私が勧めたのではないだろうか? 「自分が夜帰るときはまだこれから描くといっていたのに、翌朝の神戸新聞を見たら、奨励賞に兄貴の名前が出ていた」といったことがある。それはないわけで、弟が帰ったのは土曜日で、私はその夜徹夜でポスターを仕上げて、翌日曜日の審査会場に持ち込み、それが神戸宣伝美術家協会展の奨励賞に選ばれて、翌月曜日の朝刊に出たということだろう。その年の展覧会のパンフレットの表紙デザインは私がしていた。当時の私は主に神戸電通の仕事を専属的にしていた。
後に、私の大学在学中に弟は日宣美特選を受賞した。その年1965年の日宣美賞は石岡暎子氏だった。翌々年には奨励賞を受賞して、会員になり、その翌年には日本交通公社の時刻表と雑誌「旅」のポスターで東京アートディレクターズクラブの銅賞を受賞した。非常に卓越した才能を持っていた。
私は1967年に大学を卒業したが、1970年には日宣美が学生たちの造反運動に曝されて解散する。東大紛争、浅間山荘事件と騒然とした若者造反の嵐が吹き荒れる時代だった。神戸時代から10年以上が過ぎて、結果的には私も目指した方向とは異なった方向に進むことになった。弟も突然デザイナーを止める決意をして、小さなスタジオに版画の機材を揃えて版画を作り始めた。彼は時を惜しんで、世の栄華に背を向けて、ひたすらに自分の世界にこもり、自身のアートの完成を目指したのである。東京から故郷の明石へUターンしたのは、それから間もなくの事で、母が亡くなったのがきっかけだった。アーチストになることとは本来俗世を捨てることであるはずだろう。しかしそれはいうに易いが、実行はしがたい。
東京で何度か開かれた個展には大勢の批評家やコレクターも訪れ、新素朴派ともいえる作風と完成度の高い独自で精緻な技巧を愛でて、驚くほど絵も売れ大好評であったが、私がニューヨークに移住して以来、彼の個展を見る機会がない。一昨年訪れたときには新作を見せてくれなかったが、この展覧会にはその新作も含めてほとんどの作品が出品されているようだ。
会場には弟妹や、残り少なくなったいとこたちも来たということだが、「後はおまえが来てくれればなー」といったので、私は狼狽した。
私がこの弟子のために何もしてやれなかったのではないかと、いや、自分の事に精一杯で親のことも弟のことも思いやらなかったと、過ぎてしまった年月を、もはや自分の力の及ばない事であるから、悔やむにためらって、ただ思い返している。
最近、日宣美の大阪出身デザイナーの代表者ともいうべき早川良雄氏が亡くなられたばかりだ。昔私の友人だった庄田進君(大阪万博に向けて地下鉄工事中の天六でガス爆発に巻き込まれて死去)が、私を大阪のカロン洋裁研究所内にあった早川氏のスタジオに連れて行ってくれたことがある。もう押入れかと思うくらい狭いスタジオで机が三つほど並んでいて、アシスタントも留守で早川氏に紹介され損ねた。庄田君は早川氏を尊敬していて、実際に早川氏の紹介でスモカ歯磨きの宣伝部に勤めていた。しかし私は多分その後かも知れないが、所属していた神戸のデザイナーグループ「ノン」が早川氏を呼んで兵庫県立美術館の一室で話を聞いた時に彼に会った。その時に「具体の吉原治郎氏に会って聞いてみたら、観客を驚かせたいというので、それなら会場でションベンすればいいじゃないかといった」という話がいつまでも記憶に残って、他の話は忘れてしまった。当時関西では「具体」は一面ではからかいの対象になっていたと思う。ずっと後に早川氏が東京に事務所を移し、そのデザインスタジオの責任者を神戸時代の仲間であった灘本唯人氏が引き受けたので、訪ねていったとき、早川氏は私を認めて会釈された。名前も知られないままになった。
粟津氏の仕事でもう一つ印象に残っているのは、小林正樹監督の映画「怪談」のタイトルバックだ。映画のストーリーは忘れてしまったが、水の中にカラーのインクか絵の具を垂らしてその色の煙が舞い上がる映像はその効果的なおどろおどろしいバックグラウンドミュージックと共に未だに覚えている。この仕事にも見られるように彼は単に造形作家ではなかった。これまであまりそのように考えたことはなかったのだが、私にとってはその作品がもっとも強い印象を与えた先行する若手グラフィックデザイナーであったようだ。実際に後に私は法政大学の哲学科に進学したのだが、その場合に、子供の頃関西で、ラジオで聞いて強い印象を受けた甲子園での法政一高の優勝や、当時とみに美学者として高名であった哲学科教授、谷川哲三氏の存在がその動機であったが、今にして思えば法政大中退で、芸大他、美術大学卒業者に混じって、しかもそのトップを走る粟津氏の存在が一番大きく影響したと思う。ご冥福をお祈りする。
藤尾勝治郎 花火(大観覧車)油彩F10号 1995さて今ちょうど、私の実弟の藤尾勝治郎が、生まれ故郷の兵庫県小野市の市立好古館で、回顧的な個展「郷土ゆかりの画家-藤尾勝治郎展」を開催中である。(5月10日まで)その展覧会の手引きの経歴に、実兄(日影眩、画家、現在ニューヨーク在住)の元へ商業美術の見習いとして弟子入りした、とある。それを読むとちょっと心が痛んだ。そういえば弟がやってきて、喫茶店で「デザインを教えてくれ」と熱心に頼んだことを思い出す。「兄貴は19歳で俺は17歳だった」といった。神戸の新開地の二階建ての安アパートの4畳半一間の部屋に、弟は二人分の弁当を持って通ってきて、夜は夜間高校に通った。私が勧めたのではないだろうか? 「自分が夜帰るときはまだこれから描くといっていたのに、翌朝の神戸新聞を見たら、奨励賞に兄貴の名前が出ていた」といったことがある。それはないわけで、弟が帰ったのは土曜日で、私はその夜徹夜でポスターを仕上げて、翌日曜日の審査会場に持ち込み、それが神戸宣伝美術家協会展の奨励賞に選ばれて、翌月曜日の朝刊に出たということだろう。その年の展覧会のパンフレットの表紙デザインは私がしていた。当時の私は主に神戸電通の仕事を専属的にしていた。
後に、私の大学在学中に弟は日宣美特選を受賞した。その年1965年の日宣美賞は石岡暎子氏だった。翌々年には奨励賞を受賞して、会員になり、その翌年には日本交通公社の時刻表と雑誌「旅」のポスターで東京アートディレクターズクラブの銅賞を受賞した。非常に卓越した才能を持っていた。
私は1967年に大学を卒業したが、1970年には日宣美が学生たちの造反運動に曝されて解散する。東大紛争、浅間山荘事件と騒然とした若者造反の嵐が吹き荒れる時代だった。神戸時代から10年以上が過ぎて、結果的には私も目指した方向とは異なった方向に進むことになった。弟も突然デザイナーを止める決意をして、小さなスタジオに版画の機材を揃えて版画を作り始めた。彼は時を惜しんで、世の栄華に背を向けて、ひたすらに自分の世界にこもり、自身のアートの完成を目指したのである。東京から故郷の明石へUターンしたのは、それから間もなくの事で、母が亡くなったのがきっかけだった。アーチストになることとは本来俗世を捨てることであるはずだろう。しかしそれはいうに易いが、実行はしがたい。
東京で何度か開かれた個展には大勢の批評家やコレクターも訪れ、新素朴派ともいえる作風と完成度の高い独自で精緻な技巧を愛でて、驚くほど絵も売れ大好評であったが、私がニューヨークに移住して以来、彼の個展を見る機会がない。一昨年訪れたときには新作を見せてくれなかったが、この展覧会にはその新作も含めてほとんどの作品が出品されているようだ。
会場には弟妹や、残り少なくなったいとこたちも来たということだが、「後はおまえが来てくれればなー」といったので、私は狼狽した。
私がこの弟子のために何もしてやれなかったのではないかと、いや、自分の事に精一杯で親のことも弟のことも思いやらなかったと、過ぎてしまった年月を、もはや自分の力の及ばない事であるから、悔やむにためらって、ただ思い返している。
「ネズミが一匹、ネズミが二匹、」
ニューヨークでネズミに出会って驚いたのは、もう15年も前、ブルックリン、グリーンポイントのアパートでだった。
日本では、子供の頃、ネズミは天井を走り回るのでなじみだった。東京でマンションに住むようになってから、ネズミはゴキブリと共にいなくなった。
今のプロスペクトプレースのブラウンストーン(木造4階建)のアパートに暮らすようになってから、3〜4回はネズミが出た。その都度2匹を、糊付きのトラップで捕まえた。ニューヨークのアパートに来るネズミはマウスと呼ばれる小型のネズミで、毎回親が来て、二匹子供を産んでどこかに行ってしまうように思われた。一度はトラップにくっついたので安心して見ていたら、凄いパワーのあるネズミでトラップを振り切って逃げてしまい、二度とトラップにかからないので、やむなくポイゾンを置いておいたら、ハエの大発生に悩まされた。どこか見えないところで死んで、結果はハエが大発生した。汚い話でごめんなさい。
今回は12月頃寝室でごそごそ音がしたので、糊付きトラップを置いたらすぐに一匹かかって、これは逃がさないようにすぐに更に糊に押しつけて捨てた。ところが二匹目が翌朝かかった時は、物音で目が覚めたが、眠いのでちょっと放置したらトラップを振り切って逃げてしまい、その後捕まらなくなった。
結局木の板にバネ仕掛けで針金がパチンと閉まるトラップを買わなければならないが、どこで売っているか分からない。チャイナタウンに行った時に買うのを忘れた。そのうち急に倉庫を片づけ始めたら、かみさんが手伝い始めたので、本格的に入居以来放置してあった以前住んでいた人のがらくたでいっぱいの倉庫を片付けることにした。そうするとなんと履物入れのキャビネットから、捜していたその木製のトラップが出てきた。それを早速仕掛けて残りのネズミも片付けた(2匹目)。もしかすると私は超能力があるのかなあ、と正直まじめに考えた。それとも何時か調べて、それがあるのを潜在意識で記憶していたのか、などと考えたりした。
ところがまだネズミはいた。「チュウ太郎と目が合った」とかみさんがいう。で、慌てて近くのスーパーストア、メットにトラップを探しに行ったら、なんと一組だけ例の木製のトラップがあった。これでトラップを神秘的なパワーに導かれて発見した話の有難みがなくなってしまったが、しっかりそのネズ公はトラップにかかった。しかしかみさんは、これも以前住んでいた人が作った、絵を張ったりするための壁いっぱいに設置されたベニヤのパネルのうしろで音がしたという。ねずみ算というようにネズミは2匹ずつ子を産むというので、一ヶ月も放置したのであのネズミが子を産んでしまったのだろう。でそのパネルの隙間の出口に、白い糊付き紙のトラップを置いてそいつも簡単に片付けた(4匹目)。しかしもしねずみ算が正しいならもう一匹いるはずだ。買っておいた木製トラップをキッチンテーブルの下に仕掛けたら、そいつが無いとかみさんがいう。見たら少し離れたところで木片を背負ってネズミがもがいていた(5匹目)。
テント・トラップ
翌朝かみさんがまだネズミがいると騒ぐ。テーブルの上や電子レンジの回りにフンが落ちているという。まさかねえ。それはないだろう。何かの思い違いでこの前捕ったヤツのではないか? といったら怒り始めた。ところが1週間ほどたって見たら仕掛けておいた木製のトラップが動いていた。しかしネズミは捕り逃がしたと思った。よく見たらなんと尻尾を除いて2センチくらいの子ネズミが針金で押さえられていた。「それ見なさい、あんたは私のいうことを信用しないのだから」とかみさんがいった。先日買っておいた、紙をテント状に組み立てるトラップを、音がしたように思った寝室の壁に仕掛けて寝た。早朝物音で目が覚めてみたら、トラップは壁から離れてあった。中を見たら黒い影が詰まっていた。チュウチュウと尻尾だけくっついてしまったベビーネズミがぶら下がって暴れているので、テントの中へ押し込んで、母子のネズミをゴミ袋に捨てた。
その後で枕元の本を片付けようとしたら、ハードカバーの本に足を挟まれた子ネズミの死骸があった。次いでキッチンの床に何か落ちていると思ったらこれも子ネズミの死骸だった(10匹目)。食品を徹底して隠したので、母ネズミの乳が出なかったのだろうか?
一体ネズミは何匹子を産むのか? 念のためにトラップを2カ所に置いてある。まさかもういないだろうが。こんな文を書いてないで仕事をしなきゃ、と反省している。気温は5℃、朝からNYバッファローにコンチネンタル機が落ちて、50人が亡くなった日の午後である。(2009/2/13)
日本では、子供の頃、ネズミは天井を走り回るのでなじみだった。東京でマンションに住むようになってから、ネズミはゴキブリと共にいなくなった。
今のプロスペクトプレースのブラウンストーン(木造4階建)のアパートに暮らすようになってから、3〜4回はネズミが出た。その都度2匹を、糊付きのトラップで捕まえた。ニューヨークのアパートに来るネズミはマウスと呼ばれる小型のネズミで、毎回親が来て、二匹子供を産んでどこかに行ってしまうように思われた。一度はトラップにくっついたので安心して見ていたら、凄いパワーのあるネズミでトラップを振り切って逃げてしまい、二度とトラップにかからないので、やむなくポイゾンを置いておいたら、ハエの大発生に悩まされた。どこか見えないところで死んで、結果はハエが大発生した。汚い話でごめんなさい。
今回は12月頃寝室でごそごそ音がしたので、糊付きトラップを置いたらすぐに一匹かかって、これは逃がさないようにすぐに更に糊に押しつけて捨てた。ところが二匹目が翌朝かかった時は、物音で目が覚めたが、眠いのでちょっと放置したらトラップを振り切って逃げてしまい、その後捕まらなくなった。
結局木の板にバネ仕掛けで針金がパチンと閉まるトラップを買わなければならないが、どこで売っているか分からない。チャイナタウンに行った時に買うのを忘れた。そのうち急に倉庫を片づけ始めたら、かみさんが手伝い始めたので、本格的に入居以来放置してあった以前住んでいた人のがらくたでいっぱいの倉庫を片付けることにした。そうするとなんと履物入れのキャビネットから、捜していたその木製のトラップが出てきた。それを早速仕掛けて残りのネズミも片付けた(2匹目)。もしかすると私は超能力があるのかなあ、と正直まじめに考えた。それとも何時か調べて、それがあるのを潜在意識で記憶していたのか、などと考えたりした。
ところがまだネズミはいた。「チュウ太郎と目が合った」とかみさんがいう。で、慌てて近くのスーパーストア、メットにトラップを探しに行ったら、なんと一組だけ例の木製のトラップがあった。これでトラップを神秘的なパワーに導かれて発見した話の有難みがなくなってしまったが、しっかりそのネズ公はトラップにかかった。しかしかみさんは、これも以前住んでいた人が作った、絵を張ったりするための壁いっぱいに設置されたベニヤのパネルのうしろで音がしたという。ねずみ算というようにネズミは2匹ずつ子を産むというので、一ヶ月も放置したのであのネズミが子を産んでしまったのだろう。でそのパネルの隙間の出口に、白い糊付き紙のトラップを置いてそいつも簡単に片付けた(4匹目)。しかしもしねずみ算が正しいならもう一匹いるはずだ。買っておいた木製トラップをキッチンテーブルの下に仕掛けたら、そいつが無いとかみさんがいう。見たら少し離れたところで木片を背負ってネズミがもがいていた(5匹目)。
テント・トラップ翌朝かみさんがまだネズミがいると騒ぐ。テーブルの上や電子レンジの回りにフンが落ちているという。まさかねえ。それはないだろう。何かの思い違いでこの前捕ったヤツのではないか? といったら怒り始めた。ところが1週間ほどたって見たら仕掛けておいた木製のトラップが動いていた。しかしネズミは捕り逃がしたと思った。よく見たらなんと尻尾を除いて2センチくらいの子ネズミが針金で押さえられていた。「それ見なさい、あんたは私のいうことを信用しないのだから」とかみさんがいった。先日買っておいた、紙をテント状に組み立てるトラップを、音がしたように思った寝室の壁に仕掛けて寝た。早朝物音で目が覚めてみたら、トラップは壁から離れてあった。中を見たら黒い影が詰まっていた。チュウチュウと尻尾だけくっついてしまったベビーネズミがぶら下がって暴れているので、テントの中へ押し込んで、母子のネズミをゴミ袋に捨てた。
その後で枕元の本を片付けようとしたら、ハードカバーの本に足を挟まれた子ネズミの死骸があった。次いでキッチンの床に何か落ちていると思ったらこれも子ネズミの死骸だった(10匹目)。食品を徹底して隠したので、母ネズミの乳が出なかったのだろうか?
一体ネズミは何匹子を産むのか? 念のためにトラップを2カ所に置いてある。まさかもういないだろうが。こんな文を書いてないで仕事をしなきゃ、と反省している。気温は5℃、朝からNYバッファローにコンチネンタル機が落ちて、50人が亡くなった日の午後である。(2009/2/13)
今年ニューヨークの冬は寒い。
今日も雪が降っている。今年は雪が多い。大雪にはならない。この数日は嘘のように暖かで、摂氏8-10℃もあった。昨夜はジュエリー・デザイナー、晶子さんの案内でフィフスアベニュー(パークスロープ)のイタリアン・レストランに行った。私はイタリアン・レストランに行きたいのではない。かみさんが喜ぶのである。日本人と付き合うとたいがいは、日本料理でなければ、コリアン、チャイニーズ、チベタリアン、インド、タイなどのアジア料理になる。女性でも若いアーチストや学生は手元が厳しいので、やっぱりアジア系に行くことになる。けれどその辺にある店に入るのではなくて、美味しいので知られている店に行くのである。日本から来た女性に、コリアンかベルジアンかと聞くと、たいがいはコリアンを選ばない。そういうものだが、住んでいる人は、珍しさよりは自分の趣向に従うので、値段の問題だけでなくアジアンを選ぶのかも知れない。
晶子さんは、ニューヨーク中の評判の店を調べて、訪ねることを楽しみにしているようなので、かみさんの望みを痛く満足させてくれる。晶子さんは評判の美人だが、食べることを愛するグルメで、もしかするとセックスよりも食べることを愛している(笑)。そういう点では私とは正反対だなー(笑)。私はもちろん美味しいものを食べるのは好きだし、若い頃から、日本の皆さんと同様、名を知られたような店には足を運んでいるが、未だに美味しいものを食べに行きたいという衝動に駆られないと思う。
ソーホーの近辺でさてどこかに食べに行こうか? ということになると、昔も今も、カナルストリートからモット通りを南へ行って、ペル通りを左に曲がって、右側にある鹿鳴春(ジョーズシャンハイ)である。ここにはショーロンポウ(カニみそ)という定番があって、この味だけは心引かれる。この店にどれだけ多くの人と行ったか知れないくらいだ。それに若い女子学生でも払える値段の安さが魅力である。
その他には最近ニューミュージアムがオープンして、周辺に画廊が増え始めて評判のローワーイーストサイドに粥之店がある。ここの粥は美味しくて安い。ここにも思い出してみると大勢の若い女性を誘った。もっともここに誘った女性とは大部分がそれこっきりになったから、女性を誘うには鬼門であるかも知れない。それともそれは私だけの事かな?
しかし最近、かみさんは中国の食品に疑いを持って、ニューヨークであっても、チャイナタウンでの買い物同様、チャイニーズ・レストランに行きたがらない。
雪の日の朝 プロスペクトプレース
さて、話を戻して、今年の1月は例年より気温が低いように思う。連日−8℃前後という日が続いて、一度は−14℃まで下げた。−8℃くらいだともう手袋無しでは外出できない。帽子も必需品だ。もうそんな気温の日には出たくない。今は、もう亡くなった私の英語の先生ローチ氏は、華氏40以下はセッションを中止といった。彼にとってはそれ以下では健康上不安だったのだと思う。華氏40度は、4℃である。
間もなく、アメリカンエアーラインのマイレジの期限が来てしまうので、丁度特別提供の国内都市旅行でシカゴに行こうかと考えた。かみさんが調べるともうチケットがないけど、ボストン経由便があった。1万数千円で往復チケットが買える。乗り気で調べたら、シカゴの当日の気温が−22℃だった。当然中止した。(2009/2/3)
晶子さんは、ニューヨーク中の評判の店を調べて、訪ねることを楽しみにしているようなので、かみさんの望みを痛く満足させてくれる。晶子さんは評判の美人だが、食べることを愛するグルメで、もしかするとセックスよりも食べることを愛している(笑)。そういう点では私とは正反対だなー(笑)。私はもちろん美味しいものを食べるのは好きだし、若い頃から、日本の皆さんと同様、名を知られたような店には足を運んでいるが、未だに美味しいものを食べに行きたいという衝動に駆られないと思う。
ソーホーの近辺でさてどこかに食べに行こうか? ということになると、昔も今も、カナルストリートからモット通りを南へ行って、ペル通りを左に曲がって、右側にある鹿鳴春(ジョーズシャンハイ)である。ここにはショーロンポウ(カニみそ)という定番があって、この味だけは心引かれる。この店にどれだけ多くの人と行ったか知れないくらいだ。それに若い女子学生でも払える値段の安さが魅力である。
その他には最近ニューミュージアムがオープンして、周辺に画廊が増え始めて評判のローワーイーストサイドに粥之店がある。ここの粥は美味しくて安い。ここにも思い出してみると大勢の若い女性を誘った。もっともここに誘った女性とは大部分がそれこっきりになったから、女性を誘うには鬼門であるかも知れない。それともそれは私だけの事かな?
しかし最近、かみさんは中国の食品に疑いを持って、ニューヨークであっても、チャイナタウンでの買い物同様、チャイニーズ・レストランに行きたがらない。
雪の日の朝 プロスペクトプレースさて、話を戻して、今年の1月は例年より気温が低いように思う。連日−8℃前後という日が続いて、一度は−14℃まで下げた。−8℃くらいだともう手袋無しでは外出できない。帽子も必需品だ。もうそんな気温の日には出たくない。今は、もう亡くなった私の英語の先生ローチ氏は、華氏40以下はセッションを中止といった。彼にとってはそれ以下では健康上不安だったのだと思う。華氏40度は、4℃である。
間もなく、アメリカンエアーラインのマイレジの期限が来てしまうので、丁度特別提供の国内都市旅行でシカゴに行こうかと考えた。かみさんが調べるともうチケットがないけど、ボストン経由便があった。1万数千円で往復チケットが買える。乗り気で調べたら、シカゴの当日の気温が−22℃だった。当然中止した。(2009/2/3)




