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「♪あの頃のこと夢みたい♪-藤尾勝治郎展」
グラフイックデザイナーの粟津潔氏が亡くなった。80歳、肺炎である。私が青雲の志に燃えて上京した頃、粟津氏はグラフイックデザイン界の若手スターの1人だった。田中一光氏には紹介されて何度か自宅を訪ねて教えを受けたことがあったが、粟津氏とは面識がなかった。私がデザイナーの道を歩み始めていた頃、大阪のデパートに日宣美展を見に行ったが、そこで第一回日宣美賞を受賞した粟津氏のポスター「海を返せ」に強い印象を受けた。
最近、日宣美の大阪出身デザイナーの代表者ともいうべき早川良雄氏が亡くなられたばかりだ。昔私の友人だった庄田進君(大阪万博に向けて地下鉄工事中の天六でガス爆発に巻き込まれて死去)が、私を大阪のカロン洋裁研究所内にあった早川氏のスタジオに連れて行ってくれたことがある。もう押入れかと思うくらい狭いスタジオで机が三つほど並んでいて、アシスタントも留守で早川氏に紹介され損ねた。庄田君は早川氏を尊敬していて、実際に早川氏の紹介でスモカ歯磨きの宣伝部に勤めていた。しかし私は多分その後かも知れないが、所属していた神戸のデザイナーグループ「ノン」が早川氏を呼んで兵庫県立美術館の一室で話を聞いた時に彼に会った。その時に「具体の吉原治郎氏に会って聞いてみたら、観客を驚かせたいというので、それなら会場でションベンすればいいじゃないかといった」という話がいつまでも記憶に残って、他の話は忘れてしまった。当時関西では「具体」は一面ではからかいの対象になっていたと思う。ずっと後に早川氏が東京に事務所を移し、そのデザインスタジオの責任者を神戸時代の仲間であった灘本唯人氏が引き受けたので、訪ねていったとき、早川氏は私を認めて会釈された。名前も知られないままになった。
粟津氏の仕事でもう一つ印象に残っているのは、小林正樹監督の映画「怪談」のタイトルバックだ。映画のストーリーは忘れてしまったが、水の中にカラーのインクか絵の具を垂らしてその色の煙が舞い上がる映像はその効果的なおどろおどろしいバックグラウンドミュージックと共に未だに覚えている。この仕事にも見られるように彼は単に造形作家ではなかった。これまであまりそのように考えたことはなかったのだが、私にとってはその作品がもっとも強い印象を与えた先行する若手グラフィックデザイナーであったようだ。実際に後に私は法政大学の哲学科に進学したのだが、その場合に、子供の頃関西で、ラジオで聞いて強い印象を受けた甲子園での法政一高の優勝や、当時とみに美学者として高名であった哲学科教授、谷川哲三氏の存在がその動機であったが、今にして思えば法政大中退で、芸大他、美術大学卒業者に混じって、しかもそのトップを走る粟津氏の存在が一番大きく影響したと思う。ご冥福をお祈りする。
藤尾勝治郎 花火(大観覧車)油彩F10号 1995
さて今ちょうど、私の実弟の藤尾勝治郎が、生まれ故郷の兵庫県小野市の市立好古館で、回顧的な個展「郷土ゆかりの画家-藤尾勝治郎展」を開催中である。(5月10日まで)その展覧会の手引きの経歴に、実兄(日影眩、画家、現在ニューヨーク在住)の元へ商業美術の見習いとして弟子入りした、とある。それを読むとちょっと心が痛んだ。そういえば弟がやってきて、喫茶店で「デザインを教えてくれ」と熱心に頼んだことを思い出す。「兄貴は19歳で俺は17歳だった」といった。神戸の新開地の二階建ての安アパートの4畳半一間の部屋に、弟は二人分の弁当を持って通ってきて、夜は夜間高校に通った。私が勧めたのではないだろうか? 「自分が夜帰るときはまだこれから描くといっていたのに、翌朝の神戸新聞を見たら、奨励賞に兄貴の名前が出ていた」といったことがある。それはないわけで、弟が帰ったのは土曜日で、私はその夜徹夜でポスターを仕上げて、翌日曜日の審査会場に持ち込み、それが神戸宣伝美術家協会展の奨励賞に選ばれて、翌月曜日の朝刊に出たということだろう。その年の展覧会のパンフレットの表紙デザインは私がしていた。当時の私は主に神戸電通の仕事を専属的にしていた。
後に、私の大学在学中に弟は日宣美特選を受賞した。その年1965年の日宣美賞は石岡暎子氏だった。翌々年には奨励賞を受賞して、会員になり、その翌年には日本交通公社の時刻表と雑誌「旅」のポスターで東京アートディレクターズクラブの銅賞を受賞した。非常に卓越した才能を持っていた。
私は1967年に大学を卒業したが、1970年には日宣美が学生たちの造反運動に曝されて解散する。東大紛争、浅間山荘事件と騒然とした若者造反の嵐が吹き荒れる時代だった。神戸時代から10年以上が過ぎて、結果的には私も目指した方向とは異なった方向に進むことになった。弟も突然デザイナーを止める決意をして、小さなスタジオに版画の機材を揃えて版画を作り始めた。彼は時を惜しんで、世の栄華に背を向けて、ひたすらに自分の世界にこもり、自身のアートの完成を目指したのである。東京から故郷の明石へUターンしたのは、それから間もなくの事で、母が亡くなったのがきっかけだった。アーチストになることとは本来俗世を捨てることであるはずだろう。しかしそれはいうに易いが、実行はしがたい。
東京で何度か開かれた個展には大勢の批評家やコレクターも訪れ、新素朴派ともいえる作風と完成度の高い独自で精緻な技巧を愛でて、驚くほど絵も売れ大好評であったが、私がニューヨークに移住して以来、彼の個展を見る機会がない。一昨年訪れたときには新作を見せてくれなかったが、この展覧会にはその新作も含めてほとんどの作品が出品されているようだ。
会場には弟妹や、残り少なくなったいとこたちも来たということだが、「後はおまえが来てくれればなー」といったので、私は狼狽した。
私がこの弟子のために何もしてやれなかったのではないかと、いや、自分の事に精一杯で親のことも弟のことも思いやらなかったと、過ぎてしまった年月を、もはや自分の力の及ばない事であるから、悔やむにためらって、ただ思い返している。
最近、日宣美の大阪出身デザイナーの代表者ともいうべき早川良雄氏が亡くなられたばかりだ。昔私の友人だった庄田進君(大阪万博に向けて地下鉄工事中の天六でガス爆発に巻き込まれて死去)が、私を大阪のカロン洋裁研究所内にあった早川氏のスタジオに連れて行ってくれたことがある。もう押入れかと思うくらい狭いスタジオで机が三つほど並んでいて、アシスタントも留守で早川氏に紹介され損ねた。庄田君は早川氏を尊敬していて、実際に早川氏の紹介でスモカ歯磨きの宣伝部に勤めていた。しかし私は多分その後かも知れないが、所属していた神戸のデザイナーグループ「ノン」が早川氏を呼んで兵庫県立美術館の一室で話を聞いた時に彼に会った。その時に「具体の吉原治郎氏に会って聞いてみたら、観客を驚かせたいというので、それなら会場でションベンすればいいじゃないかといった」という話がいつまでも記憶に残って、他の話は忘れてしまった。当時関西では「具体」は一面ではからかいの対象になっていたと思う。ずっと後に早川氏が東京に事務所を移し、そのデザインスタジオの責任者を神戸時代の仲間であった灘本唯人氏が引き受けたので、訪ねていったとき、早川氏は私を認めて会釈された。名前も知られないままになった。
粟津氏の仕事でもう一つ印象に残っているのは、小林正樹監督の映画「怪談」のタイトルバックだ。映画のストーリーは忘れてしまったが、水の中にカラーのインクか絵の具を垂らしてその色の煙が舞い上がる映像はその効果的なおどろおどろしいバックグラウンドミュージックと共に未だに覚えている。この仕事にも見られるように彼は単に造形作家ではなかった。これまであまりそのように考えたことはなかったのだが、私にとってはその作品がもっとも強い印象を与えた先行する若手グラフィックデザイナーであったようだ。実際に後に私は法政大学の哲学科に進学したのだが、その場合に、子供の頃関西で、ラジオで聞いて強い印象を受けた甲子園での法政一高の優勝や、当時とみに美学者として高名であった哲学科教授、谷川哲三氏の存在がその動機であったが、今にして思えば法政大中退で、芸大他、美術大学卒業者に混じって、しかもそのトップを走る粟津氏の存在が一番大きく影響したと思う。ご冥福をお祈りする。
藤尾勝治郎 花火(大観覧車)油彩F10号 1995さて今ちょうど、私の実弟の藤尾勝治郎が、生まれ故郷の兵庫県小野市の市立好古館で、回顧的な個展「郷土ゆかりの画家-藤尾勝治郎展」を開催中である。(5月10日まで)その展覧会の手引きの経歴に、実兄(日影眩、画家、現在ニューヨーク在住)の元へ商業美術の見習いとして弟子入りした、とある。それを読むとちょっと心が痛んだ。そういえば弟がやってきて、喫茶店で「デザインを教えてくれ」と熱心に頼んだことを思い出す。「兄貴は19歳で俺は17歳だった」といった。神戸の新開地の二階建ての安アパートの4畳半一間の部屋に、弟は二人分の弁当を持って通ってきて、夜は夜間高校に通った。私が勧めたのではないだろうか? 「自分が夜帰るときはまだこれから描くといっていたのに、翌朝の神戸新聞を見たら、奨励賞に兄貴の名前が出ていた」といったことがある。それはないわけで、弟が帰ったのは土曜日で、私はその夜徹夜でポスターを仕上げて、翌日曜日の審査会場に持ち込み、それが神戸宣伝美術家協会展の奨励賞に選ばれて、翌月曜日の朝刊に出たということだろう。その年の展覧会のパンフレットの表紙デザインは私がしていた。当時の私は主に神戸電通の仕事を専属的にしていた。
後に、私の大学在学中に弟は日宣美特選を受賞した。その年1965年の日宣美賞は石岡暎子氏だった。翌々年には奨励賞を受賞して、会員になり、その翌年には日本交通公社の時刻表と雑誌「旅」のポスターで東京アートディレクターズクラブの銅賞を受賞した。非常に卓越した才能を持っていた。
私は1967年に大学を卒業したが、1970年には日宣美が学生たちの造反運動に曝されて解散する。東大紛争、浅間山荘事件と騒然とした若者造反の嵐が吹き荒れる時代だった。神戸時代から10年以上が過ぎて、結果的には私も目指した方向とは異なった方向に進むことになった。弟も突然デザイナーを止める決意をして、小さなスタジオに版画の機材を揃えて版画を作り始めた。彼は時を惜しんで、世の栄華に背を向けて、ひたすらに自分の世界にこもり、自身のアートの完成を目指したのである。東京から故郷の明石へUターンしたのは、それから間もなくの事で、母が亡くなったのがきっかけだった。アーチストになることとは本来俗世を捨てることであるはずだろう。しかしそれはいうに易いが、実行はしがたい。
東京で何度か開かれた個展には大勢の批評家やコレクターも訪れ、新素朴派ともいえる作風と完成度の高い独自で精緻な技巧を愛でて、驚くほど絵も売れ大好評であったが、私がニューヨークに移住して以来、彼の個展を見る機会がない。一昨年訪れたときには新作を見せてくれなかったが、この展覧会にはその新作も含めてほとんどの作品が出品されているようだ。
会場には弟妹や、残り少なくなったいとこたちも来たということだが、「後はおまえが来てくれればなー」といったので、私は狼狽した。
私がこの弟子のために何もしてやれなかったのではないかと、いや、自分の事に精一杯で親のことも弟のことも思いやらなかったと、過ぎてしまった年月を、もはや自分の力の及ばない事であるから、悔やむにためらって、ただ思い返している。
「ネズミが一匹、ネズミが二匹、」
ニューヨークでネズミに出会って驚いたのは、もう15年も前、ブルックリン、グリーンポイントのアパートでだった。
日本では、子供の頃、ネズミは天井を走り回るのでなじみだった。東京でマンションに住むようになってから、ネズミはゴキブリと共にいなくなった。
今のプロスペクトプレースのブラウンストーン(木造4階建)のアパートに暮らすようになってから、3〜4回はネズミが出た。その都度2匹を、糊付きのトラップで捕まえた。ニューヨークのアパートに来るネズミはマウスと呼ばれる小型のネズミで、毎回親が来て、二匹子供を産んでどこかに行ってしまうように思われた。一度はトラップにくっついたので安心して見ていたら、凄いパワーのあるネズミでトラップを振り切って逃げてしまい、二度とトラップにかからないので、やむなくポイゾンを置いておいたら、ハエの大発生に悩まされた。どこか見えないところで死んで、結果はハエが大発生した。汚い話でごめんなさい。
今回は12月頃寝室でごそごそ音がしたので、糊付きトラップを置いたらすぐに一匹かかって、これは逃がさないようにすぐに更に糊に押しつけて捨てた。ところが二匹目が翌朝かかった時は、物音で目が覚めたが、眠いのでちょっと放置したらトラップを振り切って逃げてしまい、その後捕まらなくなった。
結局木の板にバネ仕掛けで針金がパチンと閉まるトラップを買わなければならないが、どこで売っているか分からない。チャイナタウンに行った時に買うのを忘れた。そのうち急に倉庫を片づけ始めたら、かみさんが手伝い始めたので、本格的に入居以来放置してあった以前住んでいた人のがらくたでいっぱいの倉庫を片付けることにした。そうするとなんと履物入れのキャビネットから、捜していたその木製のトラップが出てきた。それを早速仕掛けて残りのネズミも片付けた(2匹目)。もしかすると私は超能力があるのかなあ、と正直まじめに考えた。それとも何時か調べて、それがあるのを潜在意識で記憶していたのか、などと考えたりした。
ところがまだネズミはいた。「チュウ太郎と目が合った」とかみさんがいう。で、慌てて近くのスーパーストア、メットにトラップを探しに行ったら、なんと一組だけ例の木製のトラップがあった。これでトラップを神秘的なパワーに導かれて発見した話の有難みがなくなってしまったが、しっかりそのネズ公はトラップにかかった。しかしかみさんは、これも以前住んでいた人が作った、絵を張ったりするための壁いっぱいに設置されたベニヤのパネルのうしろで音がしたという。ねずみ算というようにネズミは2匹ずつ子を産むというので、一ヶ月も放置したのであのネズミが子を産んでしまったのだろう。でそのパネルの隙間の出口に、白い糊付き紙のトラップを置いてそいつも簡単に片付けた(4匹目)。しかしもしねずみ算が正しいならもう一匹いるはずだ。買っておいた木製トラップをキッチンテーブルの下に仕掛けたら、そいつが無いとかみさんがいう。見たら少し離れたところで木片を背負ってネズミがもがいていた(5匹目)。
テント・トラップ
翌朝かみさんがまだネズミがいると騒ぐ。テーブルの上や電子レンジの回りにフンが落ちているという。まさかねえ。それはないだろう。何かの思い違いでこの前捕ったヤツのではないか? といったら怒り始めた。ところが1週間ほどたって見たら仕掛けておいた木製のトラップが動いていた。しかしネズミは捕り逃がしたと思った。よく見たらなんと尻尾を除いて2センチくらいの子ネズミが針金で押さえられていた。「それ見なさい、あんたは私のいうことを信用しないのだから」とかみさんがいった。先日買っておいた、紙をテント状に組み立てるトラップを、音がしたように思った寝室の壁に仕掛けて寝た。早朝物音で目が覚めてみたら、トラップは壁から離れてあった。中を見たら黒い影が詰まっていた。チュウチュウと尻尾だけくっついてしまったベビーネズミがぶら下がって暴れているので、テントの中へ押し込んで、母子のネズミをゴミ袋に捨てた。
その後で枕元の本を片付けようとしたら、ハードカバーの本に足を挟まれた子ネズミの死骸があった。次いでキッチンの床に何か落ちていると思ったらこれも子ネズミの死骸だった(10匹目)。食品を徹底して隠したので、母ネズミの乳が出なかったのだろうか?
一体ネズミは何匹子を産むのか? 念のためにトラップを2カ所に置いてある。まさかもういないだろうが。こんな文を書いてないで仕事をしなきゃ、と反省している。気温は5℃、朝からNYバッファローにコンチネンタル機が落ちて、50人が亡くなった日の午後である。(2009/2/13)
日本では、子供の頃、ネズミは天井を走り回るのでなじみだった。東京でマンションに住むようになってから、ネズミはゴキブリと共にいなくなった。
今のプロスペクトプレースのブラウンストーン(木造4階建)のアパートに暮らすようになってから、3〜4回はネズミが出た。その都度2匹を、糊付きのトラップで捕まえた。ニューヨークのアパートに来るネズミはマウスと呼ばれる小型のネズミで、毎回親が来て、二匹子供を産んでどこかに行ってしまうように思われた。一度はトラップにくっついたので安心して見ていたら、凄いパワーのあるネズミでトラップを振り切って逃げてしまい、二度とトラップにかからないので、やむなくポイゾンを置いておいたら、ハエの大発生に悩まされた。どこか見えないところで死んで、結果はハエが大発生した。汚い話でごめんなさい。
今回は12月頃寝室でごそごそ音がしたので、糊付きトラップを置いたらすぐに一匹かかって、これは逃がさないようにすぐに更に糊に押しつけて捨てた。ところが二匹目が翌朝かかった時は、物音で目が覚めたが、眠いのでちょっと放置したらトラップを振り切って逃げてしまい、その後捕まらなくなった。
結局木の板にバネ仕掛けで針金がパチンと閉まるトラップを買わなければならないが、どこで売っているか分からない。チャイナタウンに行った時に買うのを忘れた。そのうち急に倉庫を片づけ始めたら、かみさんが手伝い始めたので、本格的に入居以来放置してあった以前住んでいた人のがらくたでいっぱいの倉庫を片付けることにした。そうするとなんと履物入れのキャビネットから、捜していたその木製のトラップが出てきた。それを早速仕掛けて残りのネズミも片付けた(2匹目)。もしかすると私は超能力があるのかなあ、と正直まじめに考えた。それとも何時か調べて、それがあるのを潜在意識で記憶していたのか、などと考えたりした。
ところがまだネズミはいた。「チュウ太郎と目が合った」とかみさんがいう。で、慌てて近くのスーパーストア、メットにトラップを探しに行ったら、なんと一組だけ例の木製のトラップがあった。これでトラップを神秘的なパワーに導かれて発見した話の有難みがなくなってしまったが、しっかりそのネズ公はトラップにかかった。しかしかみさんは、これも以前住んでいた人が作った、絵を張ったりするための壁いっぱいに設置されたベニヤのパネルのうしろで音がしたという。ねずみ算というようにネズミは2匹ずつ子を産むというので、一ヶ月も放置したのであのネズミが子を産んでしまったのだろう。でそのパネルの隙間の出口に、白い糊付き紙のトラップを置いてそいつも簡単に片付けた(4匹目)。しかしもしねずみ算が正しいならもう一匹いるはずだ。買っておいた木製トラップをキッチンテーブルの下に仕掛けたら、そいつが無いとかみさんがいう。見たら少し離れたところで木片を背負ってネズミがもがいていた(5匹目)。
テント・トラップ翌朝かみさんがまだネズミがいると騒ぐ。テーブルの上や電子レンジの回りにフンが落ちているという。まさかねえ。それはないだろう。何かの思い違いでこの前捕ったヤツのではないか? といったら怒り始めた。ところが1週間ほどたって見たら仕掛けておいた木製のトラップが動いていた。しかしネズミは捕り逃がしたと思った。よく見たらなんと尻尾を除いて2センチくらいの子ネズミが針金で押さえられていた。「それ見なさい、あんたは私のいうことを信用しないのだから」とかみさんがいった。先日買っておいた、紙をテント状に組み立てるトラップを、音がしたように思った寝室の壁に仕掛けて寝た。早朝物音で目が覚めてみたら、トラップは壁から離れてあった。中を見たら黒い影が詰まっていた。チュウチュウと尻尾だけくっついてしまったベビーネズミがぶら下がって暴れているので、テントの中へ押し込んで、母子のネズミをゴミ袋に捨てた。
その後で枕元の本を片付けようとしたら、ハードカバーの本に足を挟まれた子ネズミの死骸があった。次いでキッチンの床に何か落ちていると思ったらこれも子ネズミの死骸だった(10匹目)。食品を徹底して隠したので、母ネズミの乳が出なかったのだろうか?
一体ネズミは何匹子を産むのか? 念のためにトラップを2カ所に置いてある。まさかもういないだろうが。こんな文を書いてないで仕事をしなきゃ、と反省している。気温は5℃、朝からNYバッファローにコンチネンタル機が落ちて、50人が亡くなった日の午後である。(2009/2/13)
今年ニューヨークの冬は寒い。
今日も雪が降っている。今年は雪が多い。大雪にはならない。この数日は嘘のように暖かで、摂氏8-10℃もあった。昨夜はジュエリー・デザイナー、晶子さんの案内でフィフスアベニュー(パークスロープ)のイタリアン・レストランに行った。私はイタリアン・レストランに行きたいのではない。かみさんが喜ぶのである。日本人と付き合うとたいがいは、日本料理でなければ、コリアン、チャイニーズ、チベタリアン、インド、タイなどのアジア料理になる。女性でも若いアーチストや学生は手元が厳しいので、やっぱりアジア系に行くことになる。けれどその辺にある店に入るのではなくて、美味しいので知られている店に行くのである。日本から来た女性に、コリアンかベルジアンかと聞くと、たいがいはコリアンを選ばない。そういうものだが、住んでいる人は、珍しさよりは自分の趣向に従うので、値段の問題だけでなくアジアンを選ぶのかも知れない。
晶子さんは、ニューヨーク中の評判の店を調べて、訪ねることを楽しみにしているようなので、かみさんの望みを痛く満足させてくれる。晶子さんは評判の美人だが、食べることを愛するグルメで、もしかするとセックスよりも食べることを愛している(笑)。そういう点では私とは正反対だなー(笑)。私はもちろん美味しいものを食べるのは好きだし、若い頃から、日本の皆さんと同様、名を知られたような店には足を運んでいるが、未だに美味しいものを食べに行きたいという衝動に駆られないと思う。
ソーホーの近辺でさてどこかに食べに行こうか? ということになると、昔も今も、カナルストリートからモット通りを南へ行って、ペル通りを左に曲がって、右側にある鹿鳴春(ジョーズシャンハイ)である。ここにはショーロンポウ(カニみそ)という定番があって、この味だけは心引かれる。この店にどれだけ多くの人と行ったか知れないくらいだ。それに若い女子学生でも払える値段の安さが魅力である。
その他には最近ニューミュージアムがオープンして、周辺に画廊が増え始めて評判のローワーイーストサイドに粥之店がある。ここの粥は美味しくて安い。ここにも思い出してみると大勢の若い女性を誘った。もっともここに誘った女性とは大部分がそれこっきりになったから、女性を誘うには鬼門であるかも知れない。それともそれは私だけの事かな?
しかし最近、かみさんは中国の食品に疑いを持って、ニューヨークであっても、チャイナタウンでの買い物同様、チャイニーズ・レストランに行きたがらない。
雪の日の朝 プロスペクトプレース
さて、話を戻して、今年の1月は例年より気温が低いように思う。連日−8℃前後という日が続いて、一度は−14℃まで下げた。−8℃くらいだともう手袋無しでは外出できない。帽子も必需品だ。もうそんな気温の日には出たくない。今は、もう亡くなった私の英語の先生ローチ氏は、華氏40以下はセッションを中止といった。彼にとってはそれ以下では健康上不安だったのだと思う。華氏40度は、4℃である。
間もなく、アメリカンエアーラインのマイレジの期限が来てしまうので、丁度特別提供の国内都市旅行でシカゴに行こうかと考えた。かみさんが調べるともうチケットがないけど、ボストン経由便があった。1万数千円で往復チケットが買える。乗り気で調べたら、シカゴの当日の気温が−22℃だった。当然中止した。(2009/2/3)
晶子さんは、ニューヨーク中の評判の店を調べて、訪ねることを楽しみにしているようなので、かみさんの望みを痛く満足させてくれる。晶子さんは評判の美人だが、食べることを愛するグルメで、もしかするとセックスよりも食べることを愛している(笑)。そういう点では私とは正反対だなー(笑)。私はもちろん美味しいものを食べるのは好きだし、若い頃から、日本の皆さんと同様、名を知られたような店には足を運んでいるが、未だに美味しいものを食べに行きたいという衝動に駆られないと思う。
ソーホーの近辺でさてどこかに食べに行こうか? ということになると、昔も今も、カナルストリートからモット通りを南へ行って、ペル通りを左に曲がって、右側にある鹿鳴春(ジョーズシャンハイ)である。ここにはショーロンポウ(カニみそ)という定番があって、この味だけは心引かれる。この店にどれだけ多くの人と行ったか知れないくらいだ。それに若い女子学生でも払える値段の安さが魅力である。
その他には最近ニューミュージアムがオープンして、周辺に画廊が増え始めて評判のローワーイーストサイドに粥之店がある。ここの粥は美味しくて安い。ここにも思い出してみると大勢の若い女性を誘った。もっともここに誘った女性とは大部分がそれこっきりになったから、女性を誘うには鬼門であるかも知れない。それともそれは私だけの事かな?
しかし最近、かみさんは中国の食品に疑いを持って、ニューヨークであっても、チャイナタウンでの買い物同様、チャイニーズ・レストランに行きたがらない。
雪の日の朝 プロスペクトプレースさて、話を戻して、今年の1月は例年より気温が低いように思う。連日−8℃前後という日が続いて、一度は−14℃まで下げた。−8℃くらいだともう手袋無しでは外出できない。帽子も必需品だ。もうそんな気温の日には出たくない。今は、もう亡くなった私の英語の先生ローチ氏は、華氏40以下はセッションを中止といった。彼にとってはそれ以下では健康上不安だったのだと思う。華氏40度は、4℃である。
間もなく、アメリカンエアーラインのマイレジの期限が来てしまうので、丁度特別提供の国内都市旅行でシカゴに行こうかと考えた。かみさんが調べるともうチケットがないけど、ボストン経由便があった。1万数千円で往復チケットが買える。乗り気で調べたら、シカゴの当日の気温が−22℃だった。当然中止した。(2009/2/3)
「ニューヨークでカユイカユイはなし」
出かけようと思ったが−8℃では出る気になれない。好天ながら処置無し。そこで気になる皮膚病の話を書くことにする。
私は日本で暮らしている間、皮膚病に罹ったという記憶がない。ところがアメリカでは何度かひどい痒みを伴う皮膚病に罹った。ワールドトレードセンター地区のビルにあった診療所の日本人看護婦さんの話では、アメリカには日本人にはなじみの無い菌がいっぱいあるので皮膚病に罹りやすいということだった。彼女は黒人の画家と結婚していて、作品の写真を見せてもらったことがあるが、9.11には生き残ったが、診療所がアップタウンに移転した後、癌で亡くなられた。
私はプロスペクトパークYMCAのジムに通っていたので、皮膚病を移されやすかったかも知れない。マシントレーニングの後でトルコバスに入っていた。以前に書いたことがあるが、ひどい痒みが全身からジェニタルのパートに広がって、そこが腫れ上がってしまって、しばらくは戻らなかった。まるで車のマフラーのように膨張した。あまりに立派なので、トルコに入った時に、ぶらぶらさせて入ることにした。別にそこで黒人諸氏の“なに”が巨大であるという事実を目撃したわけではないが、まあ先入観でそう思いこんでいる面があった。で、今回はここまで巨大であれば対抗できるだろうと露出して歩いたのである。アホだねえ(笑い)。
もう一度もう少しマイナーな皮膚病に罹った時は、丁度研修で来ていた東大病院の皮膚科の先生に話して、二つ組み合わせの塗り薬をもらって治ったことがある。彼は楽器の演奏が趣味で下町の多分アマチュアバンドに参加していたのである。
夕暮れのソーホー、ブルームストリート
今回は夏頃に罹った。週に一度英文の添削をしてもらう近所の若い友人がいる。数年前に子供が出来て生活も大変だろうが、どういう訳か働かないで毎日どこかを放浪しているようなのである。私はしかしそのことには一切立ち入らない。噂ではアル中だということだが、そうだからこそ週に一度電話してきて訪ねてきてくれて英語を見てくれる。最初に安い友達値段で1時間のお礼を払う約束をした。もしアル中なら酒手を供給する人をイネブラーと呼んで、褒められない立場になるので、そういうことには立ち入らなかった面もある。日本人にはいないと思うくらいに人柄がいいし、ヒューマニストでリベラリスト、推理小説、映画、マンガ好きのオタク青年で、私と話が合うが、しばしば約束は守れない。約束の守れない人はバイトさえも出来ないのだと納得した。
手足に湿疹が出て、痒くなったので、ジンマシンだろうと思い、その有名な薬の名を彼に聞いたりした。後で思い出したらその時に彼が長い足をボリボリ掻いていた。で、何か虫でも部屋にいるのかと不安になった。ジンマシンの薬を買って飲んだが、以前は一回で即座に効いた薬が効かない。そのうちに彼が1時間いて帰った後で猛烈に手足が痒くなる事に気が付いた。
近所の晶子さんが、皮膚に塗るオイルやら、バスに入れるエプソン・ソルトやら、注射の時に使うラビング・アルコールをスプレーする方法など教えてくれた。彼が帰った後すぐにアルコールを撒いて、塩を入れた熱湯の風呂に入って、残っていた塗り薬も付けてみたりして、大わらわで二三日すると回復したが、彼が来るとまた足元からワーッとめちゃめちゃに痒くなって、あげくは手も顔も頭も痒くなる。彼は話している間中、鼻も耳も首筋も頭もひっきりなしに掻いていた。
夜のカナルストリート
「誰か皮膚病の友達がいるのか?」と、とぼけたことを晶子さんに聞いたらしい彼も、私が「これはジャームで、空気中に飛んで感染するのではないか?」と追求したら、「あの部屋がもしかすると悪いかも知れない」「熱湯のシャワーを浴びる」などといってスキン・ディディーズを認めた。
結局の所、他の理由も重なって、私は彼との英語のセッションを止めてしまった。彼はもう来なくなったけれど、胸に出来た湿疹は治らず、そこら中モシャモシャと痒い状態も治らない。塩風呂に何度も入り、衣類や寝具も熱湯消毒をし、塗り薬も付けたけれど効果無し。もう部屋中にばい菌がはびこってしまったのか。そのうちに寒くなってきて部屋にヒーターも入ったからか、「こんな事は、前は無かった」と自問する状態が続いた。
友達のロッキーが、それはもしかすると空気が乾燥しているせいではないか? といった。「年取ると皮膚が乾燥しやすくなる」という。彼は生活能力に欠けているが、妙に頭はいいのである。私などはそういう知識は即座に忘れてしまう。その彼とは関係ないかも知れな いよ、という。
いやそんなわけはないよ。いきさつを考えれば、それに気持ちで痒くなるったって、普段無意識で何も考えていない時に、やたらに痒くなるのだから。で、ターゲットに行って加湿器を買ってきて、スチーム暖房で常夏状態の部屋にクールミストを発生させ埃を吸わせた。で、幾らか、やたらに水を飲まなくなったと同時に、痒みも収まったかも知れない。いや、薬局で調べて、疥癬とか皮膚疾患に効くという薬を買ってきて、塗ったからか状態は改善されたように思える。
病院へ行けって? いや何も病院へ行ければ苦労しない。私はアメリカで保険が無く、もし行ったら200ドル(2万円)くらいは即座に消える。あの友達も無職では保険があるわけもなく、これが世界に威信を問えるような世界一の大国か? と嘆いている次第である。
私は日本で暮らしている間、皮膚病に罹ったという記憶がない。ところがアメリカでは何度かひどい痒みを伴う皮膚病に罹った。ワールドトレードセンター地区のビルにあった診療所の日本人看護婦さんの話では、アメリカには日本人にはなじみの無い菌がいっぱいあるので皮膚病に罹りやすいということだった。彼女は黒人の画家と結婚していて、作品の写真を見せてもらったことがあるが、9.11には生き残ったが、診療所がアップタウンに移転した後、癌で亡くなられた。
私はプロスペクトパークYMCAのジムに通っていたので、皮膚病を移されやすかったかも知れない。マシントレーニングの後でトルコバスに入っていた。以前に書いたことがあるが、ひどい痒みが全身からジェニタルのパートに広がって、そこが腫れ上がってしまって、しばらくは戻らなかった。まるで車のマフラーのように膨張した。あまりに立派なので、トルコに入った時に、ぶらぶらさせて入ることにした。別にそこで黒人諸氏の“なに”が巨大であるという事実を目撃したわけではないが、まあ先入観でそう思いこんでいる面があった。で、今回はここまで巨大であれば対抗できるだろうと露出して歩いたのである。アホだねえ(笑い)。
もう一度もう少しマイナーな皮膚病に罹った時は、丁度研修で来ていた東大病院の皮膚科の先生に話して、二つ組み合わせの塗り薬をもらって治ったことがある。彼は楽器の演奏が趣味で下町の多分アマチュアバンドに参加していたのである。
夕暮れのソーホー、ブルームストリート今回は夏頃に罹った。週に一度英文の添削をしてもらう近所の若い友人がいる。数年前に子供が出来て生活も大変だろうが、どういう訳か働かないで毎日どこかを放浪しているようなのである。私はしかしそのことには一切立ち入らない。噂ではアル中だということだが、そうだからこそ週に一度電話してきて訪ねてきてくれて英語を見てくれる。最初に安い友達値段で1時間のお礼を払う約束をした。もしアル中なら酒手を供給する人をイネブラーと呼んで、褒められない立場になるので、そういうことには立ち入らなかった面もある。日本人にはいないと思うくらいに人柄がいいし、ヒューマニストでリベラリスト、推理小説、映画、マンガ好きのオタク青年で、私と話が合うが、しばしば約束は守れない。約束の守れない人はバイトさえも出来ないのだと納得した。
手足に湿疹が出て、痒くなったので、ジンマシンだろうと思い、その有名な薬の名を彼に聞いたりした。後で思い出したらその時に彼が長い足をボリボリ掻いていた。で、何か虫でも部屋にいるのかと不安になった。ジンマシンの薬を買って飲んだが、以前は一回で即座に効いた薬が効かない。そのうちに彼が1時間いて帰った後で猛烈に手足が痒くなる事に気が付いた。
近所の晶子さんが、皮膚に塗るオイルやら、バスに入れるエプソン・ソルトやら、注射の時に使うラビング・アルコールをスプレーする方法など教えてくれた。彼が帰った後すぐにアルコールを撒いて、塩を入れた熱湯の風呂に入って、残っていた塗り薬も付けてみたりして、大わらわで二三日すると回復したが、彼が来るとまた足元からワーッとめちゃめちゃに痒くなって、あげくは手も顔も頭も痒くなる。彼は話している間中、鼻も耳も首筋も頭もひっきりなしに掻いていた。
夜のカナルストリート「誰か皮膚病の友達がいるのか?」と、とぼけたことを晶子さんに聞いたらしい彼も、私が「これはジャームで、空気中に飛んで感染するのではないか?」と追求したら、「あの部屋がもしかすると悪いかも知れない」「熱湯のシャワーを浴びる」などといってスキン・ディディーズを認めた。
結局の所、他の理由も重なって、私は彼との英語のセッションを止めてしまった。彼はもう来なくなったけれど、胸に出来た湿疹は治らず、そこら中モシャモシャと痒い状態も治らない。塩風呂に何度も入り、衣類や寝具も熱湯消毒をし、塗り薬も付けたけれど効果無し。もう部屋中にばい菌がはびこってしまったのか。そのうちに寒くなってきて部屋にヒーターも入ったからか、「こんな事は、前は無かった」と自問する状態が続いた。
友達のロッキーが、それはもしかすると空気が乾燥しているせいではないか? といった。「年取ると皮膚が乾燥しやすくなる」という。彼は生活能力に欠けているが、妙に頭はいいのである。私などはそういう知識は即座に忘れてしまう。その彼とは関係ないかも知れな いよ、という。
いやそんなわけはないよ。いきさつを考えれば、それに気持ちで痒くなるったって、普段無意識で何も考えていない時に、やたらに痒くなるのだから。で、ターゲットに行って加湿器を買ってきて、スチーム暖房で常夏状態の部屋にクールミストを発生させ埃を吸わせた。で、幾らか、やたらに水を飲まなくなったと同時に、痒みも収まったかも知れない。いや、薬局で調べて、疥癬とか皮膚疾患に効くという薬を買ってきて、塗ったからか状態は改善されたように思える。
病院へ行けって? いや何も病院へ行ければ苦労しない。私はアメリカで保険が無く、もし行ったら200ドル(2万円)くらいは即座に消える。あの友達も無職では保険があるわけもなく、これが世界に威信を問えるような世界一の大国か? と嘆いている次第である。
「ただ一回だけの藤尾正之個展のこと」
長いこと忘れていたのだが、最近しきりに思い出すことがある。それは私がサブカルチャー・スタイルの絵を、日影眩の名で発表し始める前に、東京神田の田村画廊で、80年に本名で開いた「壁」展のことである。その作品は、住んでいた青山、麻布近辺のマンションやビルの壁を写真に撮り、自分で4色にカラー分解して、シルクスクリーンで原寸サイズにプリントしたもので、壁といってもいわゆる歴史の染みこんだ味のある壁ではなくて、ただのコンクリート壁や、レンガやタイルの、シンメトリックで単調な新しい壁を撮ったものだった。
当時私は西麻布のマンションに住んでいて、見渡す限りビルと高速道路と車に囲まれた環境にいた。アート作品を作り始めようとしていたが、一番気に掛かったのが、長年グラフイックデザイナーとして仕事をしてきて身についてしまった、かっこういい作品を作ろうとする、プロとしての美意識で、それをとにかく一切否定しようと思った。それは同時に時代に蔓延している俗的な美意識の否定でもあった。
人工的な環境の中で創意工夫や、新たな創造などは、もういらないと考え、そのことが美意識の否定と重なって、一切創造行為の入らないかつ全く何の役にも立たないものを作ることに労力と金を掛けた。それは状況に対する批判であり、無用の用を目指していた。造形的な意図を避けるために距離と角度は除いた。
西麻布から八王子の松が谷に越した私は、暗室にこもって、カラー分解と、シルクスクリーンの技法を学んで、ただの壁のプリントに1年間取り組んだ。それは印刷所に発注すれば済むことだったし、より経済的だったかも知れない。何しろ私はそのためにゼンダブロニカの6/45カメラも購入したのである。その期間、これほどむなしいことはない、つまりそれは発注すれば済むことだったからだが、という思いをした。しかしその無駄な行為こそが制作の意図だった。もっとも一方でその八王子にいた期間に、漫画家の谷岡ヤスジ氏から「大ファンだ」という電話が掛かり、その紹介で、東スポにエロチックなイラストレーションを毎週連載し続けていたのだが。
会場は神田の田村画廊に決めた。丁度私の前の週に川俣正氏が会場を工事現場のようにしていたし、そのまえに会場を見に行った時には枕木が会場に並べられていて、コールタールの臭いがしたと思う。
その一週間は、その後画家になった私は個展を繰り返してきたのだが、二度とこの時ほど楽しい個展をしたことがないと思い返すほどに楽しかった。心が浮き浮きした。そこには一切考え方以外、自分が居なかったせいかもしれない。無私であることが私を解放したのだろうか?
朝日新聞が展覧会告知に出してくれた他は、雑誌編集者の松岡正剛氏から、海外旅行中で見られなかった、次回も案内をくれというハガキを、終わった後でいただいた以外は、メディアの反響はなかった。ただ画廊主が北海道でも見せたいと、シリーズ一式14点を預かってくれたことと(もっともこの作品は今も戻らないままになったが)、後にモノ派として活躍することになった当時多摩美の学生と、俳優川谷拓三氏の女友達の女性が「この作品の下でコーヒーを飲みたい」と買ってくれた。その時に川谷氏が作品を持って、皆で撮った写真が残っている。

批評家が何人かサインしている。しかし当時、美術手帳の展覧会評の担当批評家が来て、一通り見た後、「何で描いているのか?」と聞いたので、私は「写真に撮って、色分解して、原寸に戻し、シルクで刷っただけだ」と答えた。彼は文字通り、鳩が豆鉄砲を食ったような表情になって、ポカンとした後、さっと出て行ってしまった。カメラの機材をほとんどセットしていたカメラマンが、大あわてで機材をしまって後を追った。
私の意図をもっとも的確に理解したのは、アメリカから来た青年だけで、「これからのアートが避けて通れない仕事」だといった。これは嬉しかった。結局前衛的な仕事は日本では理解されないのだというのが私の結論だった。丁度その会期中の会場に、東スポに描いている私の絵を見た映画監督の実相寺昭雄氏が、連載する自分の小説の挿絵に私を指名したからと、日刊スポーツ新聞社から依頼の電話があった。2年後の83年に私は、そのサブカルチャー・スタイルのイラストを絵画化した作品で銀座の地球堂ギャラリーで初個展をした。同じ一週間だが、絶頂のフォーカス誌が、カラー見開きで伝えた。「スキャンダル画家、日影眩の初個展」と。もうあの時のような開放感は味わえなかった。
当時私は西麻布のマンションに住んでいて、見渡す限りビルと高速道路と車に囲まれた環境にいた。アート作品を作り始めようとしていたが、一番気に掛かったのが、長年グラフイックデザイナーとして仕事をしてきて身についてしまった、かっこういい作品を作ろうとする、プロとしての美意識で、それをとにかく一切否定しようと思った。それは同時に時代に蔓延している俗的な美意識の否定でもあった。
人工的な環境の中で創意工夫や、新たな創造などは、もういらないと考え、そのことが美意識の否定と重なって、一切創造行為の入らないかつ全く何の役にも立たないものを作ることに労力と金を掛けた。それは状況に対する批判であり、無用の用を目指していた。造形的な意図を避けるために距離と角度は除いた。
西麻布から八王子の松が谷に越した私は、暗室にこもって、カラー分解と、シルクスクリーンの技法を学んで、ただの壁のプリントに1年間取り組んだ。それは印刷所に発注すれば済むことだったし、より経済的だったかも知れない。何しろ私はそのためにゼンダブロニカの6/45カメラも購入したのである。その期間、これほどむなしいことはない、つまりそれは発注すれば済むことだったからだが、という思いをした。しかしその無駄な行為こそが制作の意図だった。もっとも一方でその八王子にいた期間に、漫画家の谷岡ヤスジ氏から「大ファンだ」という電話が掛かり、その紹介で、東スポにエロチックなイラストレーションを毎週連載し続けていたのだが。
会場は神田の田村画廊に決めた。丁度私の前の週に川俣正氏が会場を工事現場のようにしていたし、そのまえに会場を見に行った時には枕木が会場に並べられていて、コールタールの臭いがしたと思う。
その一週間は、その後画家になった私は個展を繰り返してきたのだが、二度とこの時ほど楽しい個展をしたことがないと思い返すほどに楽しかった。心が浮き浮きした。そこには一切考え方以外、自分が居なかったせいかもしれない。無私であることが私を解放したのだろうか?
朝日新聞が展覧会告知に出してくれた他は、雑誌編集者の松岡正剛氏から、海外旅行中で見られなかった、次回も案内をくれというハガキを、終わった後でいただいた以外は、メディアの反響はなかった。ただ画廊主が北海道でも見せたいと、シリーズ一式14点を預かってくれたことと(もっともこの作品は今も戻らないままになったが)、後にモノ派として活躍することになった当時多摩美の学生と、俳優川谷拓三氏の女友達の女性が「この作品の下でコーヒーを飲みたい」と買ってくれた。その時に川谷氏が作品を持って、皆で撮った写真が残っている。

批評家が何人かサインしている。しかし当時、美術手帳の展覧会評の担当批評家が来て、一通り見た後、「何で描いているのか?」と聞いたので、私は「写真に撮って、色分解して、原寸に戻し、シルクで刷っただけだ」と答えた。彼は文字通り、鳩が豆鉄砲を食ったような表情になって、ポカンとした後、さっと出て行ってしまった。カメラの機材をほとんどセットしていたカメラマンが、大あわてで機材をしまって後を追った。
私の意図をもっとも的確に理解したのは、アメリカから来た青年だけで、「これからのアートが避けて通れない仕事」だといった。これは嬉しかった。結局前衛的な仕事は日本では理解されないのだというのが私の結論だった。丁度その会期中の会場に、東スポに描いている私の絵を見た映画監督の実相寺昭雄氏が、連載する自分の小説の挿絵に私を指名したからと、日刊スポーツ新聞社から依頼の電話があった。2年後の83年に私は、そのサブカルチャー・スタイルのイラストを絵画化した作品で銀座の地球堂ギャラリーで初個展をした。同じ一週間だが、絶頂のフォーカス誌が、カラー見開きで伝えた。「スキャンダル画家、日影眩の初個展」と。もうあの時のような開放感は味わえなかった。




