ベルンのクレー美術館とアルプスの虹

フィスト山麓でケーブルカーから見た虹
スイスに行く気が無かった。あそこは芸術と関係無いと思った。無知を恥じます。けれど何しろ直ぐ横の国だし、スケジュールに入れて、ユングフロウヨッホにも登った。
バーゼルはアート関係者には有名だ。7月も半ばでアートフェアは終わっていたが、ちょうど現代美術館で「ルノアール」展をやっていたので、パリ・リヨン駅発TGVの終着駅だし立ち寄った。お陰で今回はルノアールを飽きるほど見ることになった。コレクションも充実した良い美術館でした。美術館のカフェで昼食のあと市役所のあたりも見て、大急ぎで駅に戻ったが乗り遅れ途中乗り換えで、予定より遅くベルンへ到着。
乗り換えがどこでも一苦労、何しろフランスもスイスも美術館でもそうだが、自国語を誇るのか英語の説明が一切ない。こっちはフランス語がちんぷんかんぷんなので。けれど20数年前に比べるとどこでもずいぶん英語が通じるようになっていて色んな場面で助かった。


駅から徒歩の距離にあるバーゼル現代美術館 バーゼルからベルンへの乗換駅オルテン
ベルンは駅前のホテルで何かと便利だった。調べたところではここは見るものがさほど無いと見当を付けていたが、それは間違いだった。時計を見て、噴水を見て何が面白い? おまけにベア公園はつまらないと言うし。ところがこの旧市街が素晴らしかった。初日に街を河まで歩きバラ公園のある高台まで登った。素晴らしい展望だった。ただ薔薇はもう盛りを過ぎていた。戻りながら左側の河よりの街も見たが素晴らしい。


クレーが生まれて晩年を過ごしたベルンの旧市街
パウル・クレー美術館は、目的にしていた。私は若い頃からクレーが好きで、当時私にとって大金の5000円を払っても発売を待って箱入りの画集を買って今も持っているが宝物のように大事にしたものだ。ところが彼がベルンで晩年を過ごし、そのベルンが生まれ故郷でナチに追われて戻ったことは初めて知った。
翌日一番で駅前からバスに乗って出掛けた。美術館に行く乗客が私たちだけだったのは意外だったが、予想を上回る現代建築の大規模な美術館だった。入り口にいた係の女性が何度もやってきて、説明してくれた。一部の作品は京都から戻ったばかりといった。作品も予想以上に揃っていた。主としてベルンで制作した作品が中心だ。
丁度ドイツの現代アーチスト、ジグマー・ポルケとの2人展が、広い会場の中央を使って開かれていた。ポルケは10年ほど前にニューヨーク近代美術館で個展が開かれて、私も一文を日本の雑誌に書いたが、確かに現代の巨匠と言っていいだろう。1941年生まれだが、すでに亡い。私たちが帰る頃には来場者がどんどん増えてきた。凄いね、クレーは私が若者の頃にすでに大巨匠だった。
戻った後、ベルン現代美術館に向かった。ここにもクレーの代表作が数点あった。大部分はクレー美術館に移ったと言うことだが、極めつけの作品「パルナッソス山へ」などがここにはあった。他の印象派やモダンアートの作品も流石に近隣の地だから充実していて、セザンヌやピカソについても認識を改めた。美術館のカフェで用意されていたディッシュを取ったが、見かけだけでなく美味しかった。ベルンはクレーの故郷に相応しいまるで彼の絵の様に詩的な街だった。もう一泊すべきだった。


パウル・クレー美術館とエントランスホール


ベルン現代美術館 美術館カフェの軽食とアイスコーヒー
大急ぎでホテルに戻って荷物を取って駅へ。ベルンからグリンデルワルトへ、ここでは日本人の観光客が非常に多かったし、日本人のための観光案内所まである。ホテル・ヒルシェンはバルコニーのある部屋を取った。まだ明るいので、かみさんが調べたケーブルカーに乗ってフィスト山に登ったが、あいにくの小雨だった。パリでは4日間一度も晴れなくて、時には小雨が降ったが、その悪天候がまだ続いていた。「明日は晴れると言われているんだけど」と案内所の女性が言っているのが聞こえた。
フィスト山からの展望を楽しんで ケーブルカーで戻ってくると見事な虹が孤を描いていた。私がこれまでに一度も見たことがない完全な虹である。夕虹が出れば明日は晴れると言われていたのかどうか? 実際に翌日はクッキリと晴れて、私たちはユングフロウバーンに乗り、雪に覆われたヨーロッパで一番高いと言われる山頂に達して、ユングフロウヨッホの景観を楽しんだのだった。そのいきさつは写真でご覧下さい。


なぜか日本人で満員の登山列車 カラリと晴れたユングフロウヨッホ


アスレッチ氷河とメンヒ


アイガークレッチャーからクライネシャイデックまで1時間のハイキング アルプスの草花
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テーマ:美術館・博物館 展示めぐり。 - ジャンル:学問・文化・芸術
ギリシャの旅 アテネの美術館巡り
クレタから飛行機でアテネに戻ったら、地下鉄全面ストだった。チケット売り場に行って分かった。「どこかに国鉄で行ってタクシーに乗れ」というが初めての土地だから要領を得ない。後ろから来た中年の男性が通訳してくれたが、彼が自分が案内するから付いて来いといってくれたので彼について国鉄駅に行き、途中で乗り換えて、ようやくアテネのそこしかないラリサ駅に到着した。
ぐるーっと遠回りした。彼がコロナキ地区までタクシー代が25ドルくらいというので、神経質になり、と言うのも空港からでもそれくらいの料金と案内書に書かれていたからだが、正規の乗り場から乗るタクシーの運転手に交渉したが、ギリシャ語だから要領を得ないため、弱っていろいろいったが、ようやくテンユーロと聞こえたので安心して乗った。ホテルの近くにいってタクシーの運転手とか警官とかにいろいろ聞いてくれてやっと到着したが、メーターは6.5ユーロ位だったが、決めたことだから10ユーロ払った。リオンホテル、朝食はないがキッチンも付いた広いアパートメント・ホテルである。残念ながら自炊の機会はなかった。
翌日はデルフィに行き、最後の1日は朝から雨降りだったが、残してあった国立考古学博物館に行った。非常に収蔵品が多く充実した博物館だが、大勢の人が報告しているだろうから、私は多く触れないことにする。ただ土曜日で入場料無料だった。日本と違ってストをするけど福祉政策は進んでいるね。

アテネ国立考古学博物館 ゼウスまたはポセイドンのブロンズ像 (BC460年頃)
ここでは特にアフロディティの表現を注意して見た。日本でいえば浮世絵の女性表現を見るようなものだ。規模の大きい博物館だからさまざまなアフロディティの彫像を見比べることが出来る。中に大勢の人が関心を持ち写真に撮ったりしているアフロディティとパンとエロスの彫像があった。
これはいってみれば今の日本でなら犯罪になる情景を表している。パンがアフロディティにエロティックに仕掛け、女神はサンダルで彼を叩こうとしている、エロスは女神に救いの手を出すという場面である。女神はサンダルしか身につけていない。それを片側脱いでいるわけだ。神様がやることだからね、ほほえましいと言うべきなのか? 古代ギリシャだってこういう事は日常的にみられたんだろうな。風俗彫刻とも言える作品。

-ちょっとおじさん-アフロディティとパンとエロス、この彫像をディオニソスが先祖の神に奉納したというから、流石。 BC100年頃
ともあれ、ギリシャの女神は皆衣をまとっていても豊満なボディの持ち主ばかりだ。ついでに生きている現代のアフロディティと並べて紹介してみよう。なんとそっくりではないだろうか? その美を褒め称えているので女性たちもこの紹介を許してくれるだろう。

アフロディティ(国立考古学博物館)と現代のアフロディティ
陶器などが大量に展示されている二階も見たのでかなり時間を取られ3時になった。その後ホテル近くのエバンゲリスモス駅に戻って、ビザンチン美術館を見る。ここはキリスト教美術のイコンを収蔵しているが、装飾的に見ても面白いと思う。それから反対側にあるシクラディック美術館で、奇妙な人像を残したシクラディック美術に特化した小規模考古物の展示だが、ちょうどルイス・ブルジョアとサラ・ルーカス、ニューヨークとロンドンからの今様現代美術もやっていたので、追加3.5ユーロを払って見る。
ブルジョアはフェミニズムアート的な乗りのビデオもやっていたし、観客もかなり入っていた。ルーカスは綿をストッキングに詰め込んで、一見人体を思わせる有機的形態を作り、凸部を凹部に挿入して何やらセックスをほのめかすヤング・ブリティッシュ・アーチストらしい作品。私は「オ! やっと現代アートか、ホッとする」とは思わず、言語化した現代文化のデバステーション(荒廃)を感じた。リーフレットは捨てた。

ビザンチン美術館のイコン画 サラ・ルーカスの作品(シクラディック美術館)
それから近くの現代美術館に行ったが3時まででもう終わっていた。直ぐそばの高級地といわれるコロナキ広場にも行ったが、活気はなくどうという印象も持たなかった。その後で歩いて行ったシンタグマのファッション街も、もう目を見張るような美女軍団は居なかった。休みの店も目立ったから土曜日だったせいかもしれない。
調べておいたモナスティラキの駅前にあるサナシスというレストランに行って、私はシシカバブ、かみさんはケバブピタを注文して、ワインをハーフボトル取った。これはしかしチキンだといったが、ジュージュー焼きたて肉棒が4本もあり、美味しいけど私が3本食べたので行きすぎた。
ホテルに帰り着くと、近所の店が閉まっていたのでビールは買えず、買ってあった果物、サクランボなどを夜は食べた。こうして、私たちの楽しいギリシャ旅行も幕を閉じたが、翌日かみさんは飛行機の時間が午後だったので、私を見送った後、ホテルのうしろにあるリカベストの丘にケーブルで登ってアテネの街を俯瞰して楽しんだそうである。
私はアテネ発、JFK行きノンストップ、デルタ・エアーラインで、ギリシャからイタリアの長靴のかかとのあたりからフランスへ遡り、ヨーロッパ全体を見晴るかしながら、(と言って実際に見えたのは飛行機から見える場所だけで地図の上での話)やがて雲も多くなったところで大西洋を越えた。
写真に撮ったけどフィレンツエも、リヨンも川とか道、畑などは見えても判じ物のようでハッキリしなかったけど、ヨーロッパ縦断の体験は素晴らしかった。実はアイル側のチケットを予約したはずがなぜか窓側になってしまっていてラッキーだった。人生間違いもなくやれればいいというものでもない。

ヨーロッパ全体が見える航路図 機上から見たフランス、リヨン近辺
ぐるーっと遠回りした。彼がコロナキ地区までタクシー代が25ドルくらいというので、神経質になり、と言うのも空港からでもそれくらいの料金と案内書に書かれていたからだが、正規の乗り場から乗るタクシーの運転手に交渉したが、ギリシャ語だから要領を得ないため、弱っていろいろいったが、ようやくテンユーロと聞こえたので安心して乗った。ホテルの近くにいってタクシーの運転手とか警官とかにいろいろ聞いてくれてやっと到着したが、メーターは6.5ユーロ位だったが、決めたことだから10ユーロ払った。リオンホテル、朝食はないがキッチンも付いた広いアパートメント・ホテルである。残念ながら自炊の機会はなかった。
翌日はデルフィに行き、最後の1日は朝から雨降りだったが、残してあった国立考古学博物館に行った。非常に収蔵品が多く充実した博物館だが、大勢の人が報告しているだろうから、私は多く触れないことにする。ただ土曜日で入場料無料だった。日本と違ってストをするけど福祉政策は進んでいるね。


アテネ国立考古学博物館 ゼウスまたはポセイドンのブロンズ像 (BC460年頃)
ここでは特にアフロディティの表現を注意して見た。日本でいえば浮世絵の女性表現を見るようなものだ。規模の大きい博物館だからさまざまなアフロディティの彫像を見比べることが出来る。中に大勢の人が関心を持ち写真に撮ったりしているアフロディティとパンとエロスの彫像があった。
これはいってみれば今の日本でなら犯罪になる情景を表している。パンがアフロディティにエロティックに仕掛け、女神はサンダルで彼を叩こうとしている、エロスは女神に救いの手を出すという場面である。女神はサンダルしか身につけていない。それを片側脱いでいるわけだ。神様がやることだからね、ほほえましいと言うべきなのか? 古代ギリシャだってこういう事は日常的にみられたんだろうな。風俗彫刻とも言える作品。


-ちょっとおじさん-アフロディティとパンとエロス、この彫像をディオニソスが先祖の神に奉納したというから、流石。 BC100年頃
ともあれ、ギリシャの女神は皆衣をまとっていても豊満なボディの持ち主ばかりだ。ついでに生きている現代のアフロディティと並べて紹介してみよう。なんとそっくりではないだろうか? その美を褒め称えているので女性たちもこの紹介を許してくれるだろう。




アフロディティ(国立考古学博物館)と現代のアフロディティ
陶器などが大量に展示されている二階も見たのでかなり時間を取られ3時になった。その後ホテル近くのエバンゲリスモス駅に戻って、ビザンチン美術館を見る。ここはキリスト教美術のイコンを収蔵しているが、装飾的に見ても面白いと思う。それから反対側にあるシクラディック美術館で、奇妙な人像を残したシクラディック美術に特化した小規模考古物の展示だが、ちょうどルイス・ブルジョアとサラ・ルーカス、ニューヨークとロンドンからの今様現代美術もやっていたので、追加3.5ユーロを払って見る。
ブルジョアはフェミニズムアート的な乗りのビデオもやっていたし、観客もかなり入っていた。ルーカスは綿をストッキングに詰め込んで、一見人体を思わせる有機的形態を作り、凸部を凹部に挿入して何やらセックスをほのめかすヤング・ブリティッシュ・アーチストらしい作品。私は「オ! やっと現代アートか、ホッとする」とは思わず、言語化した現代文化のデバステーション(荒廃)を感じた。リーフレットは捨てた。


ビザンチン美術館のイコン画 サラ・ルーカスの作品(シクラディック美術館)
それから近くの現代美術館に行ったが3時まででもう終わっていた。直ぐそばの高級地といわれるコロナキ広場にも行ったが、活気はなくどうという印象も持たなかった。その後で歩いて行ったシンタグマのファッション街も、もう目を見張るような美女軍団は居なかった。休みの店も目立ったから土曜日だったせいかもしれない。
調べておいたモナスティラキの駅前にあるサナシスというレストランに行って、私はシシカバブ、かみさんはケバブピタを注文して、ワインをハーフボトル取った。これはしかしチキンだといったが、ジュージュー焼きたて肉棒が4本もあり、美味しいけど私が3本食べたので行きすぎた。
ホテルに帰り着くと、近所の店が閉まっていたのでビールは買えず、買ってあった果物、サクランボなどを夜は食べた。こうして、私たちの楽しいギリシャ旅行も幕を閉じたが、翌日かみさんは飛行機の時間が午後だったので、私を見送った後、ホテルのうしろにあるリカベストの丘にケーブルで登ってアテネの街を俯瞰して楽しんだそうである。
私はアテネ発、JFK行きノンストップ、デルタ・エアーラインで、ギリシャからイタリアの長靴のかかとのあたりからフランスへ遡り、ヨーロッパ全体を見晴るかしながら、(と言って実際に見えたのは飛行機から見える場所だけで地図の上での話)やがて雲も多くなったところで大西洋を越えた。
写真に撮ったけどフィレンツエも、リヨンも川とか道、畑などは見えても判じ物のようでハッキリしなかったけど、ヨーロッパ縦断の体験は素晴らしかった。実はアイル側のチケットを予約したはずがなぜか窓側になってしまっていてラッキーだった。人生間違いもなくやれればいいというものでもない。


ヨーロッパ全体が見える航路図 機上から見たフランス、リヨン近辺
ギリシャの旅 クレタの攻防
実はクレタはつまらなかったと思い込んでいた。それは行く予定のところが1日で終わってしまって2日目に行くところを発見できなかったからだ。インフォメーションで相談したら、港の堤防を突端までジョギングするか、イラクリオンをぐるっと取り囲んでいる城壁の上をジョギングするかだといった。つまりイラクリオンから日帰りで行けるめぼしい観光地がない。ゼウスが生まれたという穴があるなんて冗談のようなものだ。
それと期待してそのために来たような目的地のクノッソス神殿に失望した。というのはかなり現代の素材で手を加えて修復してしまっているからだ。コンクリートとか木材で作られた迷宮なんて冗談だろうと思ってしまう。映画のセットではあるまいし、本当にどうだったか分からないじゃないか? と思ってしまう。ところがこれは後に調査した結果、考古学者たちはこれを元に戻すのは不可能だと判断した。どうやら業者が人を呼ぶためにいろいろやってしまったらしいのだ。

クノッソス宮殿の遺構 修復された建物と絵のレプリカ
それでもクノッソス行きのバスは満員だったし、後に見た何も手を加えていないデルフィより、何倍もの観光客が押しかけていた。やっぱり石だけではどこも同じで、とりつく島もないと言うことだろう。
まあ私が期待したのは、ラビリンス(迷宮)の宮殿という売りで、あの神話を読むと道に迷うくらいだから、相当に広くて複雑だろうと思ってしまう。けれど実際神話を現実に当てはめるのも無理があるのだと思う。見渡せてしまうくらいの広さだから迷うわけ無いだろうと思ってしまうが、まあいいか。

考古学博物館 踊るレディ クノッソス(1500~1450BC) とフレスコ画(1500~1450BC) タコの模様のある粘土瓶と粘土のあぶみ壺 新宮殿時代(1500~1450BC)
ともあれ、所々修復済みの遺構を見て、大して広くないし、単純だから、直ぐに見終わってしまい、後はそこに本物の発掘品があるという考古学博物館に期待した。ところがカフェもないという。無いわけで会場はコ形のワンフロアーだけで、一回りすると終わってしまう。何だ、と思ったが、ここの収蔵品は流石に良かった。壁画も遺跡はレプリカだがこっちは本物がある。一部は修復されない元のままの絵もあり、これは素晴らしい。ともあれ僅かの展示でもミノア文明の一端を推測できたと思った。
けれど短時間で見終わるので、次いで歴史博物館に行った。ここには二点のエル・グレコの作品があるのが売りだ。凄いねえ、アーチストは。彼の銅像が彼の名を冠した公園にあった。私は印刷物で見たときから、グレコの極めて頭を小さく表現するスタイルに奇異の感を持った。けれど今度イスタンブール、アテネ、それに彼が育ったクレタに来て、彼のそのスタイルの元型を見た。歴史美術館にもその頭を小さく手脚身体を大きく描いたビザンチンのキリスト教絵画がかなり収蔵されていて、楽しむ事が出来た。

歴史博物館 エル・グレコの絵 ビザンチンのイコン
結局グレコはビザンチンのイコンを見て育ったからあの絵が生まれ、そういう背景があったからこそヨーロッパ画壇で大きくなったと思われた。ちょうど私が漫画を見て育って、漫画風の絵を描いているようなものだ。断っておくが今流行のジャパニーズ・ポップじゃないよ。あんなのは要領の良いただのいただきだ。エル・グレコは凄い。故郷が小品2点しか持っていないことに、彼は生きていたら失望しただろう。
さてこの美術館で戦時中ドイツ軍の兵士として駐留した青年が写真に撮って色を施して絵にした水彩画の展覧会をやっていた。彼は写真と絵を残して引き揚げたのである。そこで興味を持って調べてみたらクレタをめぐるドイツとイギリスの攻防戦があった。ナチスドイツは多大の損害を被りながらクレタに落下傘降下をして占領した。道理で、街が面白くないと思った。空襲もあって街は破壊され、戦後再建されたのではないだろうか?

港にあるビザンチン時代の砦 クレタの小型富士
記録によれば紀元前にミノア文明はナゾの絶滅を経験しているという。初日の夕方に港に行き、ベネチア時代の要塞を過ぎてかなり沖まで突堤を進んだのだが、振り返ってみると、船が係留された港の向こうに、小さな富士山のような休火山とおぼしき山が見えた。旅行案内にそういう記述が無いが、この島は火山島でかつて噴火したことがあるのではないかと推測した。
次の日城壁の上に登ってみたがだだっ広いだけで人影もない道が続いていた。炎天下で面白くもなかった。ともかく次の日は完全に無駄になったと思えた。

エーゲ海の深い青 土産物を買った賑やかな商店通り
ところでカストロホテルは最上階の屋上に接した部屋でジャグジ・バスがあり(私がそこに入っている写真はチャーミングだけど出しません)、シャワールームもある4部屋で、47インチのテレビが付いていた。そこで人気の(といっていた)鳩山首相辞任のニュースを見た。
バルコニーから見た海は、本当に深い、記憶するのが困難な素晴らしい青だった。それからホテルで教えられて行ったレストランはもう感激ものの美味しさであった。何しろもう海産物が新鮮で美味しい。
次の夜も来られることを喜んだが、次の夜は料理を頼んだ後で停電し、食べている最中に二度目の停電で、一度目ほど感激の味ではなく期待をはぐらかされた。センターにある賑やかな商店通りでおみやげのオリーブ石けんを買って、私たちはクレタを去った。
それと期待してそのために来たような目的地のクノッソス神殿に失望した。というのはかなり現代の素材で手を加えて修復してしまっているからだ。コンクリートとか木材で作られた迷宮なんて冗談だろうと思ってしまう。映画のセットではあるまいし、本当にどうだったか分からないじゃないか? と思ってしまう。ところがこれは後に調査した結果、考古学者たちはこれを元に戻すのは不可能だと判断した。どうやら業者が人を呼ぶためにいろいろやってしまったらしいのだ。


クノッソス宮殿の遺構 修復された建物と絵のレプリカ
それでもクノッソス行きのバスは満員だったし、後に見た何も手を加えていないデルフィより、何倍もの観光客が押しかけていた。やっぱり石だけではどこも同じで、とりつく島もないと言うことだろう。
まあ私が期待したのは、ラビリンス(迷宮)の宮殿という売りで、あの神話を読むと道に迷うくらいだから、相当に広くて複雑だろうと思ってしまう。けれど実際神話を現実に当てはめるのも無理があるのだと思う。見渡せてしまうくらいの広さだから迷うわけ無いだろうと思ってしまうが、まあいいか。



考古学博物館 踊るレディ クノッソス(1500~1450BC) とフレスコ画(1500~1450BC) タコの模様のある粘土瓶と粘土のあぶみ壺 新宮殿時代(1500~1450BC)
ともあれ、所々修復済みの遺構を見て、大して広くないし、単純だから、直ぐに見終わってしまい、後はそこに本物の発掘品があるという考古学博物館に期待した。ところがカフェもないという。無いわけで会場はコ形のワンフロアーだけで、一回りすると終わってしまう。何だ、と思ったが、ここの収蔵品は流石に良かった。壁画も遺跡はレプリカだがこっちは本物がある。一部は修復されない元のままの絵もあり、これは素晴らしい。ともあれ僅かの展示でもミノア文明の一端を推測できたと思った。
けれど短時間で見終わるので、次いで歴史博物館に行った。ここには二点のエル・グレコの作品があるのが売りだ。凄いねえ、アーチストは。彼の銅像が彼の名を冠した公園にあった。私は印刷物で見たときから、グレコの極めて頭を小さく表現するスタイルに奇異の感を持った。けれど今度イスタンブール、アテネ、それに彼が育ったクレタに来て、彼のそのスタイルの元型を見た。歴史美術館にもその頭を小さく手脚身体を大きく描いたビザンチンのキリスト教絵画がかなり収蔵されていて、楽しむ事が出来た。


歴史博物館 エル・グレコの絵 ビザンチンのイコン
結局グレコはビザンチンのイコンを見て育ったからあの絵が生まれ、そういう背景があったからこそヨーロッパ画壇で大きくなったと思われた。ちょうど私が漫画を見て育って、漫画風の絵を描いているようなものだ。断っておくが今流行のジャパニーズ・ポップじゃないよ。あんなのは要領の良いただのいただきだ。エル・グレコは凄い。故郷が小品2点しか持っていないことに、彼は生きていたら失望しただろう。
さてこの美術館で戦時中ドイツ軍の兵士として駐留した青年が写真に撮って色を施して絵にした水彩画の展覧会をやっていた。彼は写真と絵を残して引き揚げたのである。そこで興味を持って調べてみたらクレタをめぐるドイツとイギリスの攻防戦があった。ナチスドイツは多大の損害を被りながらクレタに落下傘降下をして占領した。道理で、街が面白くないと思った。空襲もあって街は破壊され、戦後再建されたのではないだろうか?


港にあるビザンチン時代の砦 クレタの小型富士
記録によれば紀元前にミノア文明はナゾの絶滅を経験しているという。初日の夕方に港に行き、ベネチア時代の要塞を過ぎてかなり沖まで突堤を進んだのだが、振り返ってみると、船が係留された港の向こうに、小さな富士山のような休火山とおぼしき山が見えた。旅行案内にそういう記述が無いが、この島は火山島でかつて噴火したことがあるのではないかと推測した。
次の日城壁の上に登ってみたがだだっ広いだけで人影もない道が続いていた。炎天下で面白くもなかった。ともかく次の日は完全に無駄になったと思えた。


エーゲ海の深い青 土産物を買った賑やかな商店通り
ところでカストロホテルは最上階の屋上に接した部屋でジャグジ・バスがあり(私がそこに入っている写真はチャーミングだけど出しません)、シャワールームもある4部屋で、47インチのテレビが付いていた。そこで人気の(といっていた)鳩山首相辞任のニュースを見た。
バルコニーから見た海は、本当に深い、記憶するのが困難な素晴らしい青だった。それからホテルで教えられて行ったレストランはもう感激ものの美味しさであった。何しろもう海産物が新鮮で美味しい。
次の夜も来られることを喜んだが、次の夜は料理を頼んだ後で停電し、食べている最中に二度目の停電で、一度目ほど感激の味ではなく期待をはぐらかされた。センターにある賑やかな商店通りでおみやげのオリーブ石けんを買って、私たちはクレタを去った。
ギリシャの旅 サントリーニ島のサンセットとそよ風
フェリー24時間ストライキのお陰で、予想外の出費を強いられつつ、飛行機でサントリーニ島に飛んだ。遅れたがともあれ午前中に着いた。インフォメーションで聞いてみると、バスはなくタクシーで20から25ユーロといった。運転手が手招きしているので行ったら、同乗者を探していたがいないので、私たちだけで出発した。グーグルの地図で見当をつけたのとは違って、フィニキア・ホテルは、中心地フィラからイアに近づいた西側海岸の道路沿いにあった。白い建物が海岸に向かっていくらか散見されるが、海岸からは離れている。タクシー代は27ユーロだった。
レセプショニストの女性に部屋に案内されたら一番上の部屋で見晴らしも風通しも良かったのでホッとした。ストライキの事は知らないといい、道理で2時といっていたのに早いと思ったといった。「サンセットはこちらの方角になります」といった。サンセット目的の人が多いのだろう。
部屋はコンクリートで一体型に作られている。家具などもシンプルな素朴な形だ。バスルームも広くてコンクリート地のままのプリンシプルな印象。これも素朴な木綿の白いカーテンをはためかせて心地よい風が吹き抜ける。バルコニーからホテルのプールの向こうに広がる海が見晴るかせる。

サントリーニ島 空港が見える ホテル・フィニキア バルコニーからの風景
とにかく屋上にあるレストランに行ってランチを食べたが、評判通りフィニキア・レストランの味は良かった。ただしワインは飲まず。その後イアの方向に歩けばあるというミニ・マーケットに出かけた。途中の景色はサボテンその他珍しい植物が生え、小鳥がさえずり、ロバが草を食みまさにリゾート地の趣だ。
ミニ・マーケットでサントリーニ島産のレッドワインを買ったが、9ユーロくらいだった。もちろん目的の水も買い、その他にチーズなども買ったが、日本のようにリゾート地値段ではなく、町中と同じ安さだった。この点はアテネでも同じだったと思う。

開放的なホテルの部屋 手前左にバスルーム 声を掛けたら寄ってきたロバ
ワインを飲んだら寝てしまった。心地よい風に身をまかせて。この日は1日どこにも行かない決定をしたのである。もう2、3日はいたかったねと話し合ったが実はもうこの後は予約が一杯だったのである。夕方になってそろそろ日が沈み始めたので、撮影の準備をして待ち構えたが、部屋からの眺めには電線が入ってしまうので、あらかじめ調べておいた下の駐車場に移動して撮影した。ニコンD90だから、ビデオで撮り、時々写真に切り替えた。天気も良く良い写真が撮れたと思う。
夜も上のフィニキア・レストランに行き家族連れやカップルに囲まれてディナーを取ったが、味は申し分なかった。

サンセット 午後8時過ぎ
翌日は朝食の後、12時前にチェックアウトした。近くにあるバス停で来るはずのバスを30分以上も待ったが来ないので、強い日差しの中、重い荷物を引っ張ってイアまで歩いた。ちょうど中間くらいに昨日行ったミニ・マーケットがある感じで、また水を買った。前から来るバスの車掌が手を挙げて合図するので、こっちも手を挙げたが、かみさんによるとそのバスは我々を無視して通過してしまったバスだという。私は気が付かなかったが、これはちょっとだけ不快な体験だった。
ところで評判のイアは確かに東側の海の風景はキレイだが、完璧に観光地化されて、建て込んだホテルと、どこまでもレストランと土産物屋が続く通りが中心で、島の端まで行ったらそこから海岸へ急坂を下りる形になっていたので、下りないで引き返した。重いバッグを引っ張っていたのである。かみさんはその通りで黒い溶岩から作った手製のネックレスを買った。私の作品ですと若い店主は喜んでいたが、私は、その街の白い建物と近くの島を描いた絵やポスターなども売っていたが、まったく興味が持てないので何も買わなかったが、かみさんはトートバッグも二枚ほど買った。

イアの東の海 イアの街 アートストア 蒼い海、白い建物と階段の絵
バス停でもうバスの来る時間だったが、客を運んできたタクシーの運転手が、フィラまで14ユーロというので、それに乗ってしまった。バスに不信感を持ってしまったのである。どこが一番の賑やかな場所か運転手が教えてくれたが、またもや土産物屋とレストランの通りだった。インターネットで調べてきたいつも混んでいるという店に行って食事した。混んでいる理由は安いからだと発見した。
この後いろいろありましたが、省略。とにかく5:55pm発のフェリーに間に合うようにバスに乗った。この港に下りる道は高い崖をジグザグに縫う急坂で、大きなバスで下りていくのは怖かった。ところでフェリーは一時間以上待たされた。乗ってみると私たちは上の指定席に案内された。一般の自由席ではなかった。頼んでそのチケットを買ったわけではない。1人46ユーロくらいだったと思う。ところが乗り場の改札に係員が居て一人1ユーロ以下の税金を徴収された。それでも低いアングルからエーゲ海を見ることになり、その上夕方には曇ってきて、船からエーゲ海を見る期待はそらされた。テレビでは、銃で武装したソルジャーがロープを伝って船に侵入する影像を繰り返していた。フライング・キャット、高速フェリーだが、クレタまではかなり時間が掛かった。
レセプショニストの女性に部屋に案内されたら一番上の部屋で見晴らしも風通しも良かったのでホッとした。ストライキの事は知らないといい、道理で2時といっていたのに早いと思ったといった。「サンセットはこちらの方角になります」といった。サンセット目的の人が多いのだろう。
部屋はコンクリートで一体型に作られている。家具などもシンプルな素朴な形だ。バスルームも広くてコンクリート地のままのプリンシプルな印象。これも素朴な木綿の白いカーテンをはためかせて心地よい風が吹き抜ける。バルコニーからホテルのプールの向こうに広がる海が見晴るかせる。


サントリーニ島 空港が見える ホテル・フィニキア バルコニーからの風景
とにかく屋上にあるレストランに行ってランチを食べたが、評判通りフィニキア・レストランの味は良かった。ただしワインは飲まず。その後イアの方向に歩けばあるというミニ・マーケットに出かけた。途中の景色はサボテンその他珍しい植物が生え、小鳥がさえずり、ロバが草を食みまさにリゾート地の趣だ。
ミニ・マーケットでサントリーニ島産のレッドワインを買ったが、9ユーロくらいだった。もちろん目的の水も買い、その他にチーズなども買ったが、日本のようにリゾート地値段ではなく、町中と同じ安さだった。この点はアテネでも同じだったと思う。


開放的なホテルの部屋 手前左にバスルーム 声を掛けたら寄ってきたロバ
ワインを飲んだら寝てしまった。心地よい風に身をまかせて。この日は1日どこにも行かない決定をしたのである。もう2、3日はいたかったねと話し合ったが実はもうこの後は予約が一杯だったのである。夕方になってそろそろ日が沈み始めたので、撮影の準備をして待ち構えたが、部屋からの眺めには電線が入ってしまうので、あらかじめ調べておいた下の駐車場に移動して撮影した。ニコンD90だから、ビデオで撮り、時々写真に切り替えた。天気も良く良い写真が撮れたと思う。
夜も上のフィニキア・レストランに行き家族連れやカップルに囲まれてディナーを取ったが、味は申し分なかった。


サンセット 午後8時過ぎ
翌日は朝食の後、12時前にチェックアウトした。近くにあるバス停で来るはずのバスを30分以上も待ったが来ないので、強い日差しの中、重い荷物を引っ張ってイアまで歩いた。ちょうど中間くらいに昨日行ったミニ・マーケットがある感じで、また水を買った。前から来るバスの車掌が手を挙げて合図するので、こっちも手を挙げたが、かみさんによるとそのバスは我々を無視して通過してしまったバスだという。私は気が付かなかったが、これはちょっとだけ不快な体験だった。
ところで評判のイアは確かに東側の海の風景はキレイだが、完璧に観光地化されて、建て込んだホテルと、どこまでもレストランと土産物屋が続く通りが中心で、島の端まで行ったらそこから海岸へ急坂を下りる形になっていたので、下りないで引き返した。重いバッグを引っ張っていたのである。かみさんはその通りで黒い溶岩から作った手製のネックレスを買った。私の作品ですと若い店主は喜んでいたが、私は、その街の白い建物と近くの島を描いた絵やポスターなども売っていたが、まったく興味が持てないので何も買わなかったが、かみさんはトートバッグも二枚ほど買った。


イアの東の海 イアの街 アートストア 蒼い海、白い建物と階段の絵
バス停でもうバスの来る時間だったが、客を運んできたタクシーの運転手が、フィラまで14ユーロというので、それに乗ってしまった。バスに不信感を持ってしまったのである。どこが一番の賑やかな場所か運転手が教えてくれたが、またもや土産物屋とレストランの通りだった。インターネットで調べてきたいつも混んでいるという店に行って食事した。混んでいる理由は安いからだと発見した。
この後いろいろありましたが、省略。とにかく5:55pm発のフェリーに間に合うようにバスに乗った。この港に下りる道は高い崖をジグザグに縫う急坂で、大きなバスで下りていくのは怖かった。ところでフェリーは一時間以上待たされた。乗ってみると私たちは上の指定席に案内された。一般の自由席ではなかった。頼んでそのチケットを買ったわけではない。1人46ユーロくらいだったと思う。ところが乗り場の改札に係員が居て一人1ユーロ以下の税金を徴収された。それでも低いアングルからエーゲ海を見ることになり、その上夕方には曇ってきて、船からエーゲ海を見る期待はそらされた。テレビでは、銃で武装したソルジャーがロープを伝って船に侵入する影像を繰り返していた。フライング・キャット、高速フェリーだが、クレタまではかなり時間が掛かった。
ギリシャの旅 アテネ アクロポリスの丘
イスタンブールからギリシャへ、午前中にオリンピック航空で移動。あらかじめチケットを購入していたので、ストの心配をしたが、幸い国営オリンピック航空は旅行中ストライキをしなかった。不思議に朝の便だけ料金が安く、一人6000円くらいだった。空港からはバスにした。ホテルは地下鉄メタクソジオ駅のすぐ側のクリスタル・シティ・ホテルである。ちょっとビジネスホテル風だが、悪くない。第一移動が楽である。
昼過ぎには着いたので、直ぐにアクロポリスの丘に出かける。地図で見て、入り口に近いと思えるモナスティラキ駅に行ったが、地下から出ると強い日差し、ショートパンツで肌を露出した若い女性たちが闊歩しているので、イスタンブールとの違いを強く感じる。駅のそばにはアドリアヌス帝の図書館の遺構がある、その遙か向こうにアクロポリスの丘が見える。行き方をおじさんに聞いて、近道は、まっすぐ登れと言うので、それに従う。始めにかみさんが帽子を買うので、私もついでに一つ買った。8ユーロである。以降この帽子で強い日差しを避けた。結構急な坂を登って、ようやく入り口にたどり着いたが、その前に近くの岩山に登ってアテネの街を撮る。
急な坂を登って、遂に何度写真や映像で見たか知れないあのパルテノン神殿にたどり着く。真っ青な空、白い列柱。感激ということはないが、やっぱり遂に来たかという感慨はある。実物を見て何がどうということはない。いいアングル以外の方向からも見て、全体的な理解が深まる。神殿のうしろに展望台があった。それと有名な婦人像柱のあるエレクティオンをぐるっと一回りして写真に撮る。ここで行った証拠に私の撮ったパルテノン神殿をお見せします。

パルテノン神殿 統一ストライキで死者まで出て観光客が少ない? 右は女性像柱のエレクティオン
降りてきたところで座っていた女性がぴょっこり挨拶する。日本の学生さん。別れるときに彼女をスナップ。彼女「有り難うございます」という。この写真は出しません。この後、岩山からいくらかの神殿や遺跡が見えた古代アゴラ地区に行く。博物館もあって発掘品が展示してある。ここで白人夫妻に写真を撮ろうと提案され、お返しに夫妻を撮る。ここにも立派な神殿もあり、かなり広い範囲に住居跡などの遺構が連なり、遙かなアクロポリスの丘の景観も含めて、アテネの中心地だった古代の繁華を偲ばせる。また柱廊博物館の出土品の展示も興味深い。

撮ってもらった写真 アタロス柱廊博物館 古代アゴラ シモン邸跡地 遙かに丘が見える
この日は麓にあるプラカ地区の坂道にあって繁盛するレストラン街を探しめぐって、紹介されているレストランを見つけてやっと食事にありついた。たくさんの料理から5種類を選べて飲み物も一種がサービス、デザートもついて非常に安いと言う店。しかし思い出してみるとそれほど「美味い」と思ったという記憶がない。ギリシャ料理のバラエティを安く味わった印象。それとも他のことに気を取られたか、食べ過ぎておいしさの記憶が消えてしまったのか?

ギリシャ料理5品とワインとビール アテネの花 プラカ地区
翌日はともあれ明後日のフェリーのチケットを手に入れるつもりで、旅行代理店のあるシンタグマに出かける。広場に出たら大勢の人が道路際に立っていて、間もなく楽隊を先頭に民族的な軍装の兵士たちが足を大きく上げる歩行で行進してきた。聞いていた衛兵の交代儀式が始まったのである。で一部始終を見物し、ビデオに撮った。
その後国立のインフォメーションセンターに行って地図や時刻表をもらった後、旅行代理店をやっと探し当てたが、なんと海の便は全部ストライキで動かないという。ホテルはどこも予約済みであるし、迷ったが、やむなくオリンピック航空でアテネからサントリーニに移動することにした。このチケット代は一人18000円くらいである。

民族軍装の兵隊さんがオイチニオイチニ シンタグマ広場 無名戦士のモニュメントの前の衛兵交代儀式
そんないざこざでこの日の行動が遅くなった。しかし予定通り地下鉄アクロポリス駅へ、ゼウス・オリンピア神殿を見るために行く。駅を出たところにある通りの混んでいるレストランでランチを取ったが、地元の主婦連が来ているだけあって、ここの料理はうまかった。
ここで探していた新アクロポリス美術館があることを発見。ゼウスの門からゼウス・オリンピア神殿を見た後、美術館へ。撮影禁止である。しかし以前にロンドンで、主要なアクロポリスの出土品や装飾レリーフがほとんど英国の大英博物館に来てしまっているのではないかと感じたものであったが、思ったよりも見るものがまだ多く残されていたと言う印象だった。
ケンタウロスの戦いのシリーズなど見応えがあった。完全な形を保つものはほとんど無いが、戦争で破壊されたのだろう。ここでカタログを買った。廉価でハンディな良いカタログである。
このカタログの中でパルテノン神殿を建設したカリスマ的指導者ペリクレスについて、全市民に参政権を与えたとその功をたたえているが、実際彼の「我々の公共的建物は、心を晴れやかにし目を楽しませる」という言葉くらいパルテノン神殿を的確に形容する言葉はない。古代アテネの精神はこのパルテノン神殿によって顕在化されていると言って良いだろう。パルテノン神殿ほど芸術の内容とその形式の関係性について私たちに考えるヒントを与えてくれる芸術作品は他にはないかもしれない。アクロポリスの丘に古代ギリシャの栄光が羽ばたいている。
驚いたのはこの美術館の床は広い範囲にガラスで作られていて、下の階の人々が見える。1階では地下の遺構が見えるようになっているのだが、そのことはつまり、下から見上げれば、上の階の観客を真下から見上げることになる。日本ならプランの段階で潰された筈だ。

ゼウス・オリンピア神殿からアクロポリスの丘を望む ハッピートレイン
この後モナスティラキに行き、ハッピートレインに乗る。6ユーロで、45分くらいアクロポリスの麓を回る。何台も連結した車両が、曲がりくねったプラカ地区のような狭い道路を、まったくぶつからずに縫うように走るのはまったく不思議である。流石科学発祥の地のアテネか? 昨日行ったレストランの前を二度も通り客引きのおじさんに挨拶した。シンタグマで終わりだったらしいが、また出発点のモナスティラキまで乗ってしまったのである。サンドイッチなどを買い、帰り着いたホテルの近くでアムステビールなど買って、ホテルの部屋で食べたサンドイッチは美味しかった。
さてギリシャでは地下鉄などに乗ると私は徹底して観察された。流石にちょっとうんざりするほどにまじまじとほとんどの人に見つめられた。ニューヨークでは私に注目する人など居ない。どうしてかと思うが、日本語で話しかけてくる人も多い。聞くところによると全ギリシャで邦人は700人くらいしかいないらしい。団体の人はバスで移動しているし、個人旅行は若者が多いから、彫りの深い顔立ちの彼らから見れば私は珍しいのかも知れない。いやその上に私は坊主で髭だしまともな日本人とは少し毛色が変わって見えるだろう。地下鉄に老人の乗客が目立つのもニューヨークと異なるところだが、人々は親切で友好的だったし、楽しく過ごせた。
昼過ぎには着いたので、直ぐにアクロポリスの丘に出かける。地図で見て、入り口に近いと思えるモナスティラキ駅に行ったが、地下から出ると強い日差し、ショートパンツで肌を露出した若い女性たちが闊歩しているので、イスタンブールとの違いを強く感じる。駅のそばにはアドリアヌス帝の図書館の遺構がある、その遙か向こうにアクロポリスの丘が見える。行き方をおじさんに聞いて、近道は、まっすぐ登れと言うので、それに従う。始めにかみさんが帽子を買うので、私もついでに一つ買った。8ユーロである。以降この帽子で強い日差しを避けた。結構急な坂を登って、ようやく入り口にたどり着いたが、その前に近くの岩山に登ってアテネの街を撮る。
急な坂を登って、遂に何度写真や映像で見たか知れないあのパルテノン神殿にたどり着く。真っ青な空、白い列柱。感激ということはないが、やっぱり遂に来たかという感慨はある。実物を見て何がどうということはない。いいアングル以外の方向からも見て、全体的な理解が深まる。神殿のうしろに展望台があった。それと有名な婦人像柱のあるエレクティオンをぐるっと一回りして写真に撮る。ここで行った証拠に私の撮ったパルテノン神殿をお見せします。


パルテノン神殿 統一ストライキで死者まで出て観光客が少ない? 右は女性像柱のエレクティオン
降りてきたところで座っていた女性がぴょっこり挨拶する。日本の学生さん。別れるときに彼女をスナップ。彼女「有り難うございます」という。この写真は出しません。この後、岩山からいくらかの神殿や遺跡が見えた古代アゴラ地区に行く。博物館もあって発掘品が展示してある。ここで白人夫妻に写真を撮ろうと提案され、お返しに夫妻を撮る。ここにも立派な神殿もあり、かなり広い範囲に住居跡などの遺構が連なり、遙かなアクロポリスの丘の景観も含めて、アテネの中心地だった古代の繁華を偲ばせる。また柱廊博物館の出土品の展示も興味深い。


撮ってもらった写真 アタロス柱廊博物館 古代アゴラ シモン邸跡地 遙かに丘が見える
この日は麓にあるプラカ地区の坂道にあって繁盛するレストラン街を探しめぐって、紹介されているレストランを見つけてやっと食事にありついた。たくさんの料理から5種類を選べて飲み物も一種がサービス、デザートもついて非常に安いと言う店。しかし思い出してみるとそれほど「美味い」と思ったという記憶がない。ギリシャ料理のバラエティを安く味わった印象。それとも他のことに気を取られたか、食べ過ぎておいしさの記憶が消えてしまったのか?


ギリシャ料理5品とワインとビール アテネの花 プラカ地区
翌日はともあれ明後日のフェリーのチケットを手に入れるつもりで、旅行代理店のあるシンタグマに出かける。広場に出たら大勢の人が道路際に立っていて、間もなく楽隊を先頭に民族的な軍装の兵士たちが足を大きく上げる歩行で行進してきた。聞いていた衛兵の交代儀式が始まったのである。で一部始終を見物し、ビデオに撮った。
その後国立のインフォメーションセンターに行って地図や時刻表をもらった後、旅行代理店をやっと探し当てたが、なんと海の便は全部ストライキで動かないという。ホテルはどこも予約済みであるし、迷ったが、やむなくオリンピック航空でアテネからサントリーニに移動することにした。このチケット代は一人18000円くらいである。


民族軍装の兵隊さんがオイチニオイチニ シンタグマ広場 無名戦士のモニュメントの前の衛兵交代儀式
そんないざこざでこの日の行動が遅くなった。しかし予定通り地下鉄アクロポリス駅へ、ゼウス・オリンピア神殿を見るために行く。駅を出たところにある通りの混んでいるレストランでランチを取ったが、地元の主婦連が来ているだけあって、ここの料理はうまかった。
ここで探していた新アクロポリス美術館があることを発見。ゼウスの門からゼウス・オリンピア神殿を見た後、美術館へ。撮影禁止である。しかし以前にロンドンで、主要なアクロポリスの出土品や装飾レリーフがほとんど英国の大英博物館に来てしまっているのではないかと感じたものであったが、思ったよりも見るものがまだ多く残されていたと言う印象だった。
ケンタウロスの戦いのシリーズなど見応えがあった。完全な形を保つものはほとんど無いが、戦争で破壊されたのだろう。ここでカタログを買った。廉価でハンディな良いカタログである。
このカタログの中でパルテノン神殿を建設したカリスマ的指導者ペリクレスについて、全市民に参政権を与えたとその功をたたえているが、実際彼の「我々の公共的建物は、心を晴れやかにし目を楽しませる」という言葉くらいパルテノン神殿を的確に形容する言葉はない。古代アテネの精神はこのパルテノン神殿によって顕在化されていると言って良いだろう。パルテノン神殿ほど芸術の内容とその形式の関係性について私たちに考えるヒントを与えてくれる芸術作品は他にはないかもしれない。アクロポリスの丘に古代ギリシャの栄光が羽ばたいている。
驚いたのはこの美術館の床は広い範囲にガラスで作られていて、下の階の人々が見える。1階では地下の遺構が見えるようになっているのだが、そのことはつまり、下から見上げれば、上の階の観客を真下から見上げることになる。日本ならプランの段階で潰された筈だ。


ゼウス・オリンピア神殿からアクロポリスの丘を望む ハッピートレイン
この後モナスティラキに行き、ハッピートレインに乗る。6ユーロで、45分くらいアクロポリスの麓を回る。何台も連結した車両が、曲がりくねったプラカ地区のような狭い道路を、まったくぶつからずに縫うように走るのはまったく不思議である。流石科学発祥の地のアテネか? 昨日行ったレストランの前を二度も通り客引きのおじさんに挨拶した。シンタグマで終わりだったらしいが、また出発点のモナスティラキまで乗ってしまったのである。サンドイッチなどを買い、帰り着いたホテルの近くでアムステビールなど買って、ホテルの部屋で食べたサンドイッチは美味しかった。
さてギリシャでは地下鉄などに乗ると私は徹底して観察された。流石にちょっとうんざりするほどにまじまじとほとんどの人に見つめられた。ニューヨークでは私に注目する人など居ない。どうしてかと思うが、日本語で話しかけてくる人も多い。聞くところによると全ギリシャで邦人は700人くらいしかいないらしい。団体の人はバスで移動しているし、個人旅行は若者が多いから、彫りの深い顔立ちの彼らから見れば私は珍しいのかも知れない。いやその上に私は坊主で髭だしまともな日本人とは少し毛色が変わって見えるだろう。地下鉄に老人の乗客が目立つのもニューヨークと異なるところだが、人々は親切で友好的だったし、楽しく過ごせた。