美術評論家、瀬木慎一氏急逝 行年80歳
今朝3月19日、Eメールを開いてショックだった。「瀬木の急逝」という見出しが目に入ったからだ。大急ぎで開くと、総合美術研究所からで、15日に肺炎で急逝されたとのことで、最後まで病床で記事を書いておられました、とあった。瀬木先生は私に取ってもっとも揺るぎない強力な支援者であった。1983年の初個展以来、一度も私の個展に見えなかったことはない。親しい友達でもそんな人は少ない。
ちょうど東北地方太平洋沖地震と大津波が発生して、福島原発危機が始まった11日からわずか4日目のことである。
「評論家は多いけどあそこまで行ける人はいない」というのが大方の評であったが、今日の批評家は何を考えているか分からないような人が多い中で、しっかりと視覚芸術についての揺るぎない視点を持っておられた点で、日本では希有の存在であった。
私の作品「West Broadway」の前の瀬木慎一先生 2009/11
私は今年の夏、伊東市の池田20世紀美術館で6月30日から10月11日まで、3ヶ月超の個展を開く予定だが、すべては瀬木先生の推薦と計らいによって実現する。すでに先生は個展用のカタログの文も、一部直しも終えて下さっていた。その文は、朗々と晴れ渡った空のように明るかった。翻訳も見せて下さいと要望されていたが、お見せできないことになった。またオープニングにもご出席いただけないことになった。
中央大学法学部卒業後、戦後文化史に名高い、岡本太郎、花田清輝を中心にした夜の会に、椎名鱗三、埴谷雄高、野間宏、安部公房、針生一郎、池田龍雄などと共に参加、生涯を日本美術の興隆のために捧げられた。第一人者になられても休み無く街の画廊に顔を出された。彼の死は、庭先で行われている展覧会にこまめに顔を出す批評家が居た良き時代が終わりを告げる象徴的インシデントとなった。
心よりご冥福をお祈りいたします。
ちょうど東北地方太平洋沖地震と大津波が発生して、福島原発危機が始まった11日からわずか4日目のことである。
「評論家は多いけどあそこまで行ける人はいない」というのが大方の評であったが、今日の批評家は何を考えているか分からないような人が多い中で、しっかりと視覚芸術についての揺るぎない視点を持っておられた点で、日本では希有の存在であった。

私は今年の夏、伊東市の池田20世紀美術館で6月30日から10月11日まで、3ヶ月超の個展を開く予定だが、すべては瀬木先生の推薦と計らいによって実現する。すでに先生は個展用のカタログの文も、一部直しも終えて下さっていた。その文は、朗々と晴れ渡った空のように明るかった。翻訳も見せて下さいと要望されていたが、お見せできないことになった。またオープニングにもご出席いただけないことになった。
中央大学法学部卒業後、戦後文化史に名高い、岡本太郎、花田清輝を中心にした夜の会に、椎名鱗三、埴谷雄高、野間宏、安部公房、針生一郎、池田龍雄などと共に参加、生涯を日本美術の興隆のために捧げられた。第一人者になられても休み無く街の画廊に顔を出された。彼の死は、庭先で行われている展覧会にこまめに顔を出す批評家が居た良き時代が終わりを告げる象徴的インシデントとなった。
心よりご冥福をお祈りいたします。
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