「ただ一回だけの藤尾正之個展のこと」
長いこと忘れていたのだが、最近しきりに思い出すことがある。それは私がサブカルチャー・スタイルの絵を、日影眩の名で発表し始める前に、東京神田の田村画廊で、80年に本名で開いた「壁」展のことである。その作品は、住んでいた青山、麻布近辺のマンションやビルの壁を写真に撮り、自分で4色にカラー分解して、シルクスクリーンで原寸サイズにプリントしたもので、壁といってもいわゆる歴史の染みこんだ味のある壁ではなくて、ただのコンクリート壁や、レンガやタイルの、シンメトリックで単調な新しい壁を撮ったものだった。
当時私は西麻布のマンションに住んでいて、見渡す限りビルと高速道路と車に囲まれた環境にいた。アート作品を作り始めようとしていたが、一番気に掛かったのが、長年グラフイックデザイナーとして仕事をしてきて身についてしまった、かっこういい作品を作ろうとする、プロとしての美意識で、それをとにかく一切否定しようと思った。それは同時に時代に蔓延している俗的な美意識の否定でもあった。
人工的な環境の中で創意工夫や、新たな創造などは、もういらないと考え、そのことが美意識の否定と重なって、一切創造行為の入らないかつ全く何の役にも立たないものを作ることに労力と金を掛けた。それは状況に対する批判であり、無用の用を目指していた。造形的な意図を避けるために距離と角度は除いた。
西麻布から八王子の松が谷に越した私は、暗室にこもって、カラー分解と、シルクスクリーンの技法を学んで、ただの壁のプリントに1年間取り組んだ。それは印刷所に発注すれば済むことだったし、より経済的だったかも知れない。何しろ私はそのためにゼンダブロニカの6/45カメラも購入したのである。その期間、これほどむなしいことはない、つまりそれは発注すれば済むことだったからだが、という思いをした。しかしその無駄な行為こそが制作の意図だった。もっとも一方でその八王子にいた期間に、漫画家の谷岡ヤスジ氏から「大ファンだ」という電話が掛かり、その紹介で、東スポにエロチックなイラストレーションを毎週連載し続けていたのだが。
会場は神田の田村画廊に決めた。丁度私の前の週に川俣正氏が会場を工事現場のようにしていたし、そのまえに会場を見に行った時には枕木が会場に並べられていて、コールタールの臭いがしたと思う。
その一週間は、その後画家になった私は個展を繰り返してきたのだが、二度とこの時ほど楽しい個展をしたことがないと思い返すほどに楽しかった。心が浮き浮きした。そこには一切考え方以外、自分が居なかったせいかもしれない。無私であることが私を解放したのだろうか?
朝日新聞が展覧会告知に出してくれた他は、雑誌編集者の松岡正剛氏から、海外旅行中で見られなかった、次回も案内をくれというハガキを、終わった後でいただいた以外は、メディアの反響はなかった。ただ画廊主が北海道でも見せたいと、シリーズ一式14点を預かってくれたことと(もっともこの作品は今も戻らないままになったが)、後にモノ派として活躍することになった当時多摩美の学生と、俳優川谷拓三氏の女友達の女性が「この作品の下でコーヒーを飲みたい」と買ってくれた。その時に川谷氏が作品を持って、皆で撮った写真が残っている。
「壁」展会場 中央右は川谷拓三氏
批評家が何人かサインしている。しかし当時、美術手帳の展覧会評の担当批評家が来て、一通り見た後、「何で描いているのか?」と聞いたので、私は「写真に撮って、色分解して、原寸に戻し、シルクで刷っただけだ」と答えた。彼は文字通り、鳩が豆鉄砲を食ったような表情になって、ポカンとした後、さっと出て行ってしまった。カメラの機材をほとんどセットしていたカメラマンが、大あわてで機材をしまって後を追った。
私の意図をもっとも的確に理解したのは、アメリカから来た青年だけで、「これからのアートが避けて通れない仕事」だといった。これは嬉しかった。結局前衛的な仕事は日本では理解されないのだというのが私の結論だった。丁度その会期中の会場に、東スポに描いている私の絵を見た映画監督の実相寺昭雄氏が、連載する自分の小説の挿絵に私を指名したからと、日刊スポーツ新聞社から依頼の電話があった。2年後の83年に私は、そのサブカルチャー・スタイルのイラストを絵画化した作品で銀座の地球堂ギャラリーで初個展をした。同じ一週間だが、絶頂のフォーカス誌が、カラー見開きで伝えた。「スキャンダル画家、日影眩の初個展」と。もうあの時のような開放感は味わえなかった。
当時私は西麻布のマンションに住んでいて、見渡す限りビルと高速道路と車に囲まれた環境にいた。アート作品を作り始めようとしていたが、一番気に掛かったのが、長年グラフイックデザイナーとして仕事をしてきて身についてしまった、かっこういい作品を作ろうとする、プロとしての美意識で、それをとにかく一切否定しようと思った。それは同時に時代に蔓延している俗的な美意識の否定でもあった。
人工的な環境の中で創意工夫や、新たな創造などは、もういらないと考え、そのことが美意識の否定と重なって、一切創造行為の入らないかつ全く何の役にも立たないものを作ることに労力と金を掛けた。それは状況に対する批判であり、無用の用を目指していた。造形的な意図を避けるために距離と角度は除いた。
西麻布から八王子の松が谷に越した私は、暗室にこもって、カラー分解と、シルクスクリーンの技法を学んで、ただの壁のプリントに1年間取り組んだ。それは印刷所に発注すれば済むことだったし、より経済的だったかも知れない。何しろ私はそのためにゼンダブロニカの6/45カメラも購入したのである。その期間、これほどむなしいことはない、つまりそれは発注すれば済むことだったからだが、という思いをした。しかしその無駄な行為こそが制作の意図だった。もっとも一方でその八王子にいた期間に、漫画家の谷岡ヤスジ氏から「大ファンだ」という電話が掛かり、その紹介で、東スポにエロチックなイラストレーションを毎週連載し続けていたのだが。
会場は神田の田村画廊に決めた。丁度私の前の週に川俣正氏が会場を工事現場のようにしていたし、そのまえに会場を見に行った時には枕木が会場に並べられていて、コールタールの臭いがしたと思う。
その一週間は、その後画家になった私は個展を繰り返してきたのだが、二度とこの時ほど楽しい個展をしたことがないと思い返すほどに楽しかった。心が浮き浮きした。そこには一切考え方以外、自分が居なかったせいかもしれない。無私であることが私を解放したのだろうか?
朝日新聞が展覧会告知に出してくれた他は、雑誌編集者の松岡正剛氏から、海外旅行中で見られなかった、次回も案内をくれというハガキを、終わった後でいただいた以外は、メディアの反響はなかった。ただ画廊主が北海道でも見せたいと、シリーズ一式14点を預かってくれたことと(もっともこの作品は今も戻らないままになったが)、後にモノ派として活躍することになった当時多摩美の学生と、俳優川谷拓三氏の女友達の女性が「この作品の下でコーヒーを飲みたい」と買ってくれた。その時に川谷氏が作品を持って、皆で撮った写真が残っている。

批評家が何人かサインしている。しかし当時、美術手帳の展覧会評の担当批評家が来て、一通り見た後、「何で描いているのか?」と聞いたので、私は「写真に撮って、色分解して、原寸に戻し、シルクで刷っただけだ」と答えた。彼は文字通り、鳩が豆鉄砲を食ったような表情になって、ポカンとした後、さっと出て行ってしまった。カメラの機材をほとんどセットしていたカメラマンが、大あわてで機材をしまって後を追った。
私の意図をもっとも的確に理解したのは、アメリカから来た青年だけで、「これからのアートが避けて通れない仕事」だといった。これは嬉しかった。結局前衛的な仕事は日本では理解されないのだというのが私の結論だった。丁度その会期中の会場に、東スポに描いている私の絵を見た映画監督の実相寺昭雄氏が、連載する自分の小説の挿絵に私を指名したからと、日刊スポーツ新聞社から依頼の電話があった。2年後の83年に私は、そのサブカルチャー・スタイルのイラストを絵画化した作品で銀座の地球堂ギャラリーで初個展をした。同じ一週間だが、絶頂のフォーカス誌が、カラー見開きで伝えた。「スキャンダル画家、日影眩の初個展」と。もうあの時のような開放感は味わえなかった。
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「ビューティフルフェイス」
ドイツ語圏を対象にしたオンライン・ギャラリーから招待されたのでポートフォリオをアップロードした。それほど時間が経っていないが、面白いのはイメージをクリックした回数が表示されることで、それで見ると初めはいろいろだったが、だんだん2000年代の新しい作品のビジター数が上がってきた。80年代の作品は低い数値のままである。考えてみると、私がニューヨークに来て、それからヨーロッパをほとんど見て回ったのは、90年代以降で、そうだとすると、世界を知らなかった時代の作品と知ってからの作品という風に区分けできるわけで、ただ古いものより新しいものが今の人の心を捉えるという意味だけではなさそうである。私はこの10数年ほとんど無為に過ごしてしまったと後悔しているのだが、これを見るとそうではなかったかと思えて元気づけられる。
ところでそのページに、ポートレートを入れるように作られているので、自分の顔を入れたのだが、その顔写真が、最近の作品イメージに伍して、古い作品よりはるかに見られている。かなり大きいサイズなのに、それを更に拡大してなぜ見るのだろう? と妙な気持ちになる。
この写真は「いい男に写っている」とかみさんにもいわれたが、もちろんそう思って選んで出したのである。それにこれはベルリンのウンター・デン・リンデンで撮ったもので、ドイツ語圏にふさわしい。
今年9月始めのある暑い土曜日の午後、私はグリーンマーケットに買い物に行った帰りに、何かの催しがあって賑わっているブルックリン、グランドアーミープラザの、ゲートの前の路上に、臨時に置かれているテーブルに座っていて、小柄な白人のおばさんに声を掛けられた。座ってもいいか? と断って横の椅子に接近して座ったおばさんをちょっと警戒したのは、「あなたはいい顔をしている」といって寄ってきたからである。アムネスティを知っていますか?と聞くので、一瞬、アメリカの有名なネズミ講ではないかと思った。けれど「国連にある」というので、それは確か難民救済の組織だったのではないかと思ってうなずいた。そのアムネスティが今映画を作っていて、そのビデオに「フィルミングさせてくれないか?」といった。私は理由が分かったので、大急ぎで「私は凄く忙しいので」と断った。「You have a very beautiful face!!」(あなたはとても綺麗な顔をしている)と繰り返して、おばさんは去っていったが、隣の男がちょっと笑っていた.
ブルックリン・グランド・アーミー・プラザ
この話を近所の晶子さんに言ったら、「惜しいことをしたね、ちょっとだけでもやってみれば良かったのに」といった。はじめ私はアジア人難民としての自分を想像したが、調べてみるとアムネスティは、政治犯の釈放を促す国際的な組織だと分かった。私は権力者によって幽閉された、心優しき高潔な人士として考えてみた。いずれにしても颯爽とした英雄ではありませんね。「ビュウティフルというのはいろんな意味があるからね」と近所のベンがしつこくおばさんの風体を聞いた後でいった。
昔ロンドンで、「みすぼらしい小柄な男がいると思ったら、自分だった」とあの夏目漱石が書いた。しかし私はニューヨークで自分をそんな風に考えたことはない。というのも路上でもレストランでも、私は本物のムービースターだと思いこんだ人々に繰り返し声を掛けられた。一番多いのが空手家で、その次がサムライ、それから日本兵である。
英語の勉強で通っていたインターナショナルセンターでは、元役者のボランティアから「あなたはいい顔をしているといって評判だよ」などといわれたこともある。最近はムービースターに間違われることも少なくなったと思っていたが、あまり外出しなくなったせいもあるかも知れない。けれど私は20歳になる前に自分で自分の顔を傷物にしてしまう親不孝をして、今まで生きてきてしまったので、顔についてはコンプレックスしかない。日本人に限らず人間というのは何といういい加減な目をして生きているのだろうと思うばかりである。もっとも役柄を考えるといすれも怖そうなのばかりだから、いい男と思われているわけではなさそうである。

それで思い出してみると、若い頃、神戸の新開地で人夫から、東京の新宿でポン引きのおばさんたちから本物のヤクザだと思われていた。国際部の仕事をしていた広告代理店では、国際ヤクザといわれた。それに第一、1989年秋、アメリカに始めて入国した日、私は車椅子に乗せられ二人の緊張した武装警官に両側を固められてニューアーク空港に降り立った。寝不足でビールに酔った私はアイルで倒れ、一瞬気を失ったのである。機内のドクターに声が掛けられ私はいろいろ様子を聞かれた。乗客は私が降りるまで足止めされた。変な雲行きだと思ったら、結局私は麻薬中毒のヤクザだと思われたのだった。
なんだ? ビューティフルにもいろいろ意味があるということか?
長くなりましたが、この辺で、なお、ベルリンでかみさんがこの私の写真を撮ったのは、9年前のことです。今ではもう少し政治犯風になったのかも知れない。
ところでそのページに、ポートレートを入れるように作られているので、自分の顔を入れたのだが、その顔写真が、最近の作品イメージに伍して、古い作品よりはるかに見られている。かなり大きいサイズなのに、それを更に拡大してなぜ見るのだろう? と妙な気持ちになる。
この写真は「いい男に写っている」とかみさんにもいわれたが、もちろんそう思って選んで出したのである。それにこれはベルリンのウンター・デン・リンデンで撮ったもので、ドイツ語圏にふさわしい。
今年9月始めのある暑い土曜日の午後、私はグリーンマーケットに買い物に行った帰りに、何かの催しがあって賑わっているブルックリン、グランドアーミープラザの、ゲートの前の路上に、臨時に置かれているテーブルに座っていて、小柄な白人のおばさんに声を掛けられた。座ってもいいか? と断って横の椅子に接近して座ったおばさんをちょっと警戒したのは、「あなたはいい顔をしている」といって寄ってきたからである。アムネスティを知っていますか?と聞くので、一瞬、アメリカの有名なネズミ講ではないかと思った。けれど「国連にある」というので、それは確か難民救済の組織だったのではないかと思ってうなずいた。そのアムネスティが今映画を作っていて、そのビデオに「フィルミングさせてくれないか?」といった。私は理由が分かったので、大急ぎで「私は凄く忙しいので」と断った。「You have a very beautiful face!!」(あなたはとても綺麗な顔をしている)と繰り返して、おばさんは去っていったが、隣の男がちょっと笑っていた.

この話を近所の晶子さんに言ったら、「惜しいことをしたね、ちょっとだけでもやってみれば良かったのに」といった。はじめ私はアジア人難民としての自分を想像したが、調べてみるとアムネスティは、政治犯の釈放を促す国際的な組織だと分かった。私は権力者によって幽閉された、心優しき高潔な人士として考えてみた。いずれにしても颯爽とした英雄ではありませんね。「ビュウティフルというのはいろんな意味があるからね」と近所のベンがしつこくおばさんの風体を聞いた後でいった。
昔ロンドンで、「みすぼらしい小柄な男がいると思ったら、自分だった」とあの夏目漱石が書いた。しかし私はニューヨークで自分をそんな風に考えたことはない。というのも路上でもレストランでも、私は本物のムービースターだと思いこんだ人々に繰り返し声を掛けられた。一番多いのが空手家で、その次がサムライ、それから日本兵である。
英語の勉強で通っていたインターナショナルセンターでは、元役者のボランティアから「あなたはいい顔をしているといって評判だよ」などといわれたこともある。最近はムービースターに間違われることも少なくなったと思っていたが、あまり外出しなくなったせいもあるかも知れない。けれど私は20歳になる前に自分で自分の顔を傷物にしてしまう親不孝をして、今まで生きてきてしまったので、顔についてはコンプレックスしかない。日本人に限らず人間というのは何といういい加減な目をして生きているのだろうと思うばかりである。もっとも役柄を考えるといすれも怖そうなのばかりだから、いい男と思われているわけではなさそうである。

それで思い出してみると、若い頃、神戸の新開地で人夫から、東京の新宿でポン引きのおばさんたちから本物のヤクザだと思われていた。国際部の仕事をしていた広告代理店では、国際ヤクザといわれた。それに第一、1989年秋、アメリカに始めて入国した日、私は車椅子に乗せられ二人の緊張した武装警官に両側を固められてニューアーク空港に降り立った。寝不足でビールに酔った私はアイルで倒れ、一瞬気を失ったのである。機内のドクターに声が掛けられ私はいろいろ様子を聞かれた。乗客は私が降りるまで足止めされた。変な雲行きだと思ったら、結局私は麻薬中毒のヤクザだと思われたのだった。
なんだ? ビューティフルにもいろいろ意味があるということか?
長くなりましたが、この辺で、なお、ベルリンでかみさんがこの私の写真を撮ったのは、9年前のことです。今ではもう少し政治犯風になったのかも知れない。