2009-05

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「♪あの頃のこと夢みたい♪-藤尾勝治郎展」

 グラフイックデザイナーの粟津潔氏が亡くなった。80歳、肺炎である。私が青雲の志に燃えて上京した頃、粟津氏はグラフイックデザイン界の若手スターの1人だった。田中一光氏には紹介されて何度か自宅を訪ねて教えを受けたことがあったが、粟津氏とは面識がなかった。私がデザイナーの道を歩み始めていた頃、大阪のデパートに日宣美展を見に行ったが、そこで第一回日宣美賞を受賞した粟津氏のポスター「海を返せ」に強い印象を受けた。
 最近、日宣美の大阪出身デザイナーの代表者ともいうべき早川良雄氏が亡くなられたばかりだ。昔私の友人だった庄田進君(大阪万博に向けて地下鉄工事中の天六でガス爆発に巻き込まれて死去)が、私を大阪のカロン洋裁研究所内にあった早川氏のスタジオに連れて行ってくれたことがある。もう押入れかと思うくらい狭いスタジオで机が三つほど並んでいて、アシスタントも留守で早川氏に紹介され損ねた。庄田君は早川氏を尊敬していて、実際に早川氏の紹介でスモカ歯磨きの宣伝部に勤めていた。しかし私は多分その後かも知れないが、所属していた神戸のデザイナーグループ「ノン」が早川氏を呼んで兵庫県立美術館の一室で話を聞いた時に彼に会った。その時に「具体の吉原治郎氏に会って聞いてみたら、観客を驚かせたいというので、それなら会場でションベンすればいいじゃないかといった」という話がいつまでも記憶に残って、他の話は忘れてしまった。当時関西では「具体」は一面ではからかいの対象になっていたと思う。ずっと後に早川氏が東京に事務所を移し、そのデザインスタジオの責任者を神戸時代の仲間であった灘本唯人氏が引き受けたので、訪ねていったとき、早川氏は私を認めて会釈された。名前も知られないままになった。
 粟津氏の仕事でもう一つ印象に残っているのは、小林正樹監督の映画「怪談」のタイトルバックだ。映画のストーリーは忘れてしまったが、水の中にカラーのインクか絵の具を垂らしてその色の煙が舞い上がる映像はその効果的なおどろおどろしいバックグラウンドミュージックと共に未だに覚えている。この仕事にも見られるように彼は単に造形作家ではなかった。これまであまりそのように考えたことはなかったのだが、私にとってはその作品がもっとも強い印象を与えた先行する若手グラフィックデザイナーであったようだ。実際に後に私は法政大学の哲学科に進学したのだが、その場合に、子供の頃関西で、ラジオで聞いて強い印象を受けた甲子園での法政一高の優勝や、当時とみに美学者として高名であった哲学科教授、谷川哲三氏の存在がその動機であったが、今にして思えば法政大中退で、芸大他、美術大学卒業者に混じって、しかもそのトップを走る粟津氏の存在が一番大きく影響したと思う。ご冥福をお祈りする。

img008勝治郎展85 藤尾勝治郎 花火(大観覧車)油彩F10号 1995
 
 さて今ちょうど、私の実弟の藤尾勝治郎が、生まれ故郷の兵庫県小野市の市立好古館で、回顧的な個展「郷土ゆかりの画家-藤尾勝治郎展」を開催中である。(5月10日まで)その展覧会の手引きの経歴に、実兄(日影眩、画家、現在ニューヨーク在住)の元へ商業美術の見習いとして弟子入りした、とある。それを読むとちょっと心が痛んだ。そういえば弟がやってきて、喫茶店で「デザインを教えてくれ」と熱心に頼んだことを思い出す。「兄貴は19歳で俺は17歳だった」といった。神戸の新開地の二階建ての安アパートの4畳半一間の部屋に、弟は二人分の弁当を持って通ってきて、夜は夜間高校に通った。私が勧めたのではないだろうか? 「自分が夜帰るときはまだこれから描くといっていたのに、翌朝の神戸新聞を見たら、奨励賞に兄貴の名前が出ていた」といったことがある。それはないわけで、弟が帰ったのは土曜日で、私はその夜徹夜でポスターを仕上げて、翌日曜日の審査会場に持ち込み、それが神戸宣伝美術家協会展の奨励賞に選ばれて、翌月曜日の朝刊に出たということだろう。その年の展覧会のパンフレットの表紙デザインは私がしていた。当時の私は主に神戸電通の仕事を専属的にしていた。
 後に、私の大学在学中に弟は日宣美特選を受賞した。その年1965年の日宣美賞は石岡暎子氏だった。翌々年には奨励賞を受賞して、会員になり、その翌年には日本交通公社の時刻表と雑誌「旅」のポスターで東京アートディレクターズクラブの銅賞を受賞した。非常に卓越した才能を持っていた。
 私は1967年に大学を卒業したが、1970年には日宣美が学生たちの造反運動に曝されて解散する。東大紛争、浅間山荘事件と騒然とした若者造反の嵐が吹き荒れる時代だった。神戸時代から10年以上が過ぎて、結果的には私も目指した方向とは異なった方向に進むことになった。弟も突然デザイナーを止める決意をして、小さなスタジオに版画の機材を揃えて版画を作り始めた。彼は時を惜しんで、世の栄華に背を向けて、ひたすらに自分の世界にこもり、自身のアートの完成を目指したのである。東京から故郷の明石へUターンしたのは、それから間もなくの事で、母が亡くなったのがきっかけだった。アーチストになることとは本来俗世を捨てることであるはずだろう。しかしそれはいうに易いが、実行はしがたい。
 東京で何度か開かれた個展には大勢の批評家やコレクターも訪れ、新素朴派ともいえる作風と完成度の高い独自で精緻な技巧を愛でて、驚くほど絵も売れ大好評であったが、私がニューヨークに移住して以来、彼の個展を見る機会がない。一昨年訪れたときには新作を見せてくれなかったが、この展覧会にはその新作も含めてほとんどの作品が出品されているようだ。
 会場には弟妹や、残り少なくなったいとこたちも来たということだが、「後はおまえが来てくれればなー」といったので、私は狼狽した。
 私がこの弟子のために何もしてやれなかったのではないかと、いや、自分の事に精一杯で親のことも弟のことも思いやらなかったと、過ぎてしまった年月を、もはや自分の力の及ばない事であるから、悔やむにためらって、ただ思い返している。

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