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2010-01

パンツの衝撃

 そうして彼は果てしないナゾのうちに身を沈めることを願っている。そうしてその法悦の境地を人に分け与えることを。 
 そうすることによって、彼は世界と一体化する没我の境地を見出す。
 彼はそのナゾを探索することによって、ナゾと一体となり、ついにはナゾを解消する。なぜなら、ナゾに同化した観察者にもはやナゾは存在しない。彼はナゾそのものとなり、ナゾはそのベールを取って一体としての真の姿を現すからだ。ユニバース。下着は媒介に過ぎない。
 彼は私を全共闘世代と呼び、自分を禅共闘であるといった。
 (かつて)私は本番女優と同じと言われた。その映画を撮った監督と同じとはいわれなかった。
 なぜならその表現は全て空想により、現実の女性が関係していないので、すべて私にオブリッジドすると見なされるのである。
 X氏は「淡泊だ」という。強いてセックスしたいと思わないという。ただ期待に応じるだけだと。つまり彼は本番女優と見なされなくて済む。カッコイイ監督の立場にある。
 人はそれぞれに異なった性格を持つ。けれどこのように自分を綺麗な場所におく姿勢、理性の範囲に保とうとする姿勢に、後ろ指を指されてオドオドしていた私の心は賛成できない。
 キレイ事ではないと責めてくる遅れてついてくる文化に立ち向かうのがアーチストの役割だと思う。
 私も好き者であるというレスポンシブルな姿勢こそが大事ではないか。私を私と知らないで、私に漏らした関係者の言葉を思い出す。「日影さんですか? あの人はスカートの中のパンツを覗きたい男は多いけど、それを表現してしまったのはあの人だけで、彼よりも他に過激な人は居ますか?」と言ったのである。私はフォーカスに「のぞき」と副題をつけられた。けれど、0次元の加藤が「私は日影の絵によって、はじめて女にも欲望があることを知った」と言ったように、常識に反した事実を伝えようとしたに過ぎない。
 のぞいたのではなくて、のぞかせていた自己主張する私と同時代を生きていた日本の娘たちを描こうとしていたのだ。

83Brutus.jpg
日影 眩 ブルータス誌 1983/6/15号 新学問のすすめ

 私たちのカルチャーを構成する構成員によって合意されたその内容は常に現実の社会の変貌と大きなずれをはらむ。現実がこのように変わっているのだと示して覚せいを促すことは、カルチャーの転換を促す常にあらゆる時代のアートに課せられた仕事だ。
 そのずれが大きい時、そのカルチャーに住む人々のコミュニケーションは不協和音が高まり、人々は幸せではない。世の中の変貌を告げることこそアーチストの大事な役割だ。
 だが、私は今も「公務員や芸能人が女学生のスカートの中をビデオに撮って逮捕されているのに、その元祖であるあなたは逮捕されないのか?」と言われるように興味本位に品性下劣な男として扱われる場合が多かった。私には生きた女性のモデルという生け贄がなかったからである。

コミケ ポスター
コミケ77(東京ビッグサイト)会場に張られたポスター 2009/12/31

 逆説的だが、女にも欲望があるように男に欲望があることも、自然の一部なのである。そうして、あらかじめそれは人間が作った世界との間にずれを生む。
 衣を脱いだ時に果てしないナゾが現れるのだ。そうしてあなたは自我を失う。
 作家は果てしないナゾを探索することによって解脱を意図し、それを観客に与えようと願う。
 「閉じようとする大地と開こうとする世界が争うその争いの内に一つの<広場>が生まれる」とハイデガーは言った。その広場を求めて、その広場を<ゆらめき>とX氏は言う。
 一方に自然一方に文化をおけば、ポインター(指針、自我の位置)は常にゆれ動く。
 人生それ自体、アート作品であり得る。これが現代美術のもっとも急進的な主張である。Life itself might be a work of Art. That is modern art’s most radical proposition.─マイケル・キンメルマン
 アートは絵やドローイングである必要はない。一人のアーチストの行動と発言のやり方であり得る。
 性の社会的抑圧から解放し、<性器性欲の優位性>を確立して健康なオルガスムスの体験能力を獲得することこそ健康の基盤である─ウイルヘルム・ライヒ
 「すべての人間は<性欲>(リビドー)に支配される」「すべての人間はオルガスムスを求めて生活している」─フロイト
 神経症に悩むオールドミスの患者にマスターベーションを勧めた。これはすべての人間が嘲笑したボディワークの始まりとされる。
 ユング、元型を提唱(古来からの神話、伝説、昔話などと共通の基本的パターンの上に成り立つとして)心の世界に個人的無意識と普遍的無意識の二つの層、後者に全人類に共通の元型があるとする。
 すべての人間は「見たい」と感じるものを見ることが出来る本能を持っているとし「宗教と性は、同じテーブルにただ座っているもの」として捉えた。
 人類において性はより高次元に「象徴的」次元にまで進化した。(性の衝動:新実存主義への道)─コリン・ウイルソン
 至高体験、性の無性化こそが人間の進化。一貫するテーマは「退屈な日常からの脱出」

(この文は、その辺に転がっていたメモ帳の中に書かれていたメモである。恐らくはX氏の批評文を書くためのメモで、2002年12月頃のものと思われる。今見て面白いと思えたので、手を加えずそのまま転用した。なおX氏は、スカートの中のパンティを下から写真に撮り、或いは天井からパンティをぶら下げるインスタレーションなどを行っていた40代の日本人作家でニューヨークでは有名であり、あるギャラリー・ディレクターから私は「あなたが彼にグレート・インフルエンスを与えたのではないか?」と言われたことがあった。最後に書き加えれば「われわれの宗教、道徳、哲学は、人間の頽廃形態である。─反対運動は芸術」─ニーチェ)

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