2009年ローワーイーストサイド秋のシーズン・キックオフ
アーモリーショウから、今新しいギャラリー・ゾーンとして注目を集めるLES(ローワーイーストサイド)ギャラリー街の9月9日、シーズン・オープニングに招待というメールが来たので、ジュエリーデザイナーの晶子さんと地下鉄スプリング・ストリート駅を出たところで待ち合わせて、出かけていった。
何度かLESに行ったのだが、これまでに行っていないギャラリーがほとんどである。いきなり氷入りのバケツに各国の様々な銘柄のビールが冷やしてあり、ワインも普段の安物ではないのが出る。で、ビール一本、ワイン一杯飲むとほぼ十分なので、ちょっと残念な気がする。もっとも何も出ないギャラリーもあった。
肝心の作品はと見れば、あれっ? まだインスタレーション中か? 木材がギャラリーの隅に重ねてある。思わず奥にいって「今日はオープニングですか?」と聞いてみる。「ええ6時から」。よく見るとその木材の一つの狭い範囲に、モノクロームの、氷河に板が浮かんでいるように見える、ハッキリとは何か分からない絵が描いてあった。
晶子さんが「日影さんが文を書くのを止めてしまった気持ちが分かりますよ」という。数軒を回った後で彼女が言うには、まるでファッションショーのように、ファッションの決まった人が集まっているという。特に足元を見ると、すごい高級な靴を履いていてビックリしてしまうという。それはそうだろう。アーモリーショウが案内を出したのだから、アーモリーショウの作品を買い切りにしてしまうような連中が来ているのだろう。けれど歩いている間一人も日本人に会わなかった。多分、プレスやコレクターなどにEメールの案内を出しただけなのか、それともギャラリーのオープニング巡りなど関心を持たれなかったのか?
二軒目のギャラリーでは、普段のペインティングと違って、壁にカラーテープを貼った作品(呆けた写真参照)。「まあ、大学院の卒業制作展で見つけてきた作家なのだろうなー」と晶子さんに、ビールを飲みながら話す。これだってマニュアル通りで新しいものは無いだろう。
スタイリッシュで愛想いいヤングレディはアーチスト?
マップを頼りに今日がオープニングの、選ばれたギャラリー10数軒、回りに回って、最後に行ったのはイギリス系のギャラリーか、イギリス人の作家で、ジンカクテルが美味しかったが、「横尾系が入っているね」と晶子さんがいったが、写真のモンタージュだが、女性器の写真を貼った作品も含まれて、むしろイギリスだから、ギルバート&ジョージに似通っていると思った。ただしほとんどが小さな作品で、壁面を埋め尽くす。
作品の傾向は、抽象でも具象でもないような得体の知れない形象、形式としては絵とか彫刻ではなく、高校の文化祭、いや小学校か? に出てくるような工作物風。あるいは漫画的イラストレーション、それから写真。写真をコンピューターで処理したもの。例えばいろいろな顔が病的に歪んでいたり汚れていたりする。
これは皆アートから逃走を目指している感じで、もう40年も前に私が考えていたことで、ちっとも新しくないと晶子さんに言ったが、今考えてみると、昔のようにアートから逃走したり、外そうとしたりしていない。今の若い人はキュレーターも、ディレクターも、クリティックも、アーチストも、コレクターも、全員がその手のものがアートだと教えられて育った世代だ。「おいあんたたち、批判精神というのはないのか?」といいたくなるね。連中は皆、逃走せず、外さず、必死で、アートと教えられた様式に参加しているだけではないか?
8時になったところで、2-3軒は見られなかったが、晶子さんが目を付けていたカナルストリート近くの餃子の店に行って、ずいぶんと待たされて餃子を食べた。流行っているだけあって、美味しくて安かったが、ヌードルまで食べてしまったせいか、アルコールが無かったせいか、ちょっと有終の美を飾るとまでは行かなかった。「日影さんの世代でこんな展覧会を見に来ている人なんて皆無でしょ?」と晶子さんがいった。褒めてくれたのかなー?。まあ、ハッキリ言って、阿呆かも。
反芸術をファッショナブルに商品化する。もう反・反芸術をやっているのはおじさんで、反抗する若者は世界的に影を潜めてしまった。やっぱりこんなの踊る阿呆に見る阿呆。沈下したのは経済とディックだけではないぜ。
何度かLESに行ったのだが、これまでに行っていないギャラリーがほとんどである。いきなり氷入りのバケツに各国の様々な銘柄のビールが冷やしてあり、ワインも普段の安物ではないのが出る。で、ビール一本、ワイン一杯飲むとほぼ十分なので、ちょっと残念な気がする。もっとも何も出ないギャラリーもあった。
肝心の作品はと見れば、あれっ? まだインスタレーション中か? 木材がギャラリーの隅に重ねてある。思わず奥にいって「今日はオープニングですか?」と聞いてみる。「ええ6時から」。よく見るとその木材の一つの狭い範囲に、モノクロームの、氷河に板が浮かんでいるように見える、ハッキリとは何か分からない絵が描いてあった。
晶子さんが「日影さんが文を書くのを止めてしまった気持ちが分かりますよ」という。数軒を回った後で彼女が言うには、まるでファッションショーのように、ファッションの決まった人が集まっているという。特に足元を見ると、すごい高級な靴を履いていてビックリしてしまうという。それはそうだろう。アーモリーショウが案内を出したのだから、アーモリーショウの作品を買い切りにしてしまうような連中が来ているのだろう。けれど歩いている間一人も日本人に会わなかった。多分、プレスやコレクターなどにEメールの案内を出しただけなのか、それともギャラリーのオープニング巡りなど関心を持たれなかったのか?
二軒目のギャラリーでは、普段のペインティングと違って、壁にカラーテープを貼った作品(呆けた写真参照)。「まあ、大学院の卒業制作展で見つけてきた作家なのだろうなー」と晶子さんに、ビールを飲みながら話す。これだってマニュアル通りで新しいものは無いだろう。

マップを頼りに今日がオープニングの、選ばれたギャラリー10数軒、回りに回って、最後に行ったのはイギリス系のギャラリーか、イギリス人の作家で、ジンカクテルが美味しかったが、「横尾系が入っているね」と晶子さんがいったが、写真のモンタージュだが、女性器の写真を貼った作品も含まれて、むしろイギリスだから、ギルバート&ジョージに似通っていると思った。ただしほとんどが小さな作品で、壁面を埋め尽くす。
作品の傾向は、抽象でも具象でもないような得体の知れない形象、形式としては絵とか彫刻ではなく、高校の文化祭、いや小学校か? に出てくるような工作物風。あるいは漫画的イラストレーション、それから写真。写真をコンピューターで処理したもの。例えばいろいろな顔が病的に歪んでいたり汚れていたりする。
これは皆アートから逃走を目指している感じで、もう40年も前に私が考えていたことで、ちっとも新しくないと晶子さんに言ったが、今考えてみると、昔のようにアートから逃走したり、外そうとしたりしていない。今の若い人はキュレーターも、ディレクターも、クリティックも、アーチストも、コレクターも、全員がその手のものがアートだと教えられて育った世代だ。「おいあんたたち、批判精神というのはないのか?」といいたくなるね。連中は皆、逃走せず、外さず、必死で、アートと教えられた様式に参加しているだけではないか?
8時になったところで、2-3軒は見られなかったが、晶子さんが目を付けていたカナルストリート近くの餃子の店に行って、ずいぶんと待たされて餃子を食べた。流行っているだけあって、美味しくて安かったが、ヌードルまで食べてしまったせいか、アルコールが無かったせいか、ちょっと有終の美を飾るとまでは行かなかった。「日影さんの世代でこんな展覧会を見に来ている人なんて皆無でしょ?」と晶子さんがいった。褒めてくれたのかなー?。まあ、ハッキリ言って、阿呆かも。
反芸術をファッショナブルに商品化する。もう反・反芸術をやっているのはおじさんで、反抗する若者は世界的に影を潜めてしまった。やっぱりこんなの踊る阿呆に見る阿呆。沈下したのは経済とディックだけではないぜ。
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