2010年アーモリーショウ
昨日、アーモリーショウに行ってきた。前で理晃ちゃんが待っていた。彼女はNYに半年前に留学のため来たばかりだ。0次元のパフォーマーでもある。
まずピア92の「モダーン」から見始めるが、ここは要するにモダーンのコーナーで、サム・フランシス、ヨゼフ・アルバースが目立つ。画廊が売りたい作品だからか、今更これを見てもね、と思ってしまう。とするとモダーンはちょっとやばいのではないか。ともあれ参加画廊は多く時間を取られる。
やっと、さあ、階段を下りて、コンテンポラリーを見るぞ、と右の端から、今年は両サイド見るのは止めて、片側だけ見ていくことにする。そうするとまるで地下鉄が駅を通過するように、次々と景色が変わって過ぎていく。こだわりはない、軽い。しかし心楽しく、、、はならない。
午後4時に近いが、それほど混んでいない。習性で美人とおもしろい作品には食指が動く。つまりシャッターボタンに指が伸びる。今年はその無意識の反応はあまり生じない。

私はちょうど5年ほど前から、写真をベースにしたリアリズム作品を描き始めた。二年前のアーモリーショウは見渡しても、再現的なリアリズム絵画は皆無だった。みんなヘタウマ風の絵で、私の古い作品でも果たしてどうかと思うくらいに関係なかった。それが今年は現実空間を再現する、つまり切ったり張ったり、変形したり色を変えたりしない、再現的写実絵画が増えていたので、もっぱらそれらを撮ることにした。
ジェフ・クーン式のスタンドプレー・アートも目立たない。不況でハッタリがきかなくなったのか? 理晃ちゃんが、「つまらないけど写実画が増えているのが収穫かな?」と的確な批評を口にした。イヤー、これなら私の絵も外れない、ぴったり噛み合うが、、、と思ったけど、たかが1年2年でころころ変わるのだから当てにならない。ロンドン、ベルリン、パリ、ウイーン、ヨーロッパからの参加も多いが、特にニューヨークが落ちるというものでもない。けれどちょっと落ちるか?


ミズマアートの三潴さんがいたので聞いてみた。参加費と運送料などでかなり掛かるようで、まるで医療費の高いアメリカで二つ三つハードな手術をやれるくらい掛かるが、それで売れなければ大損が出るので、今年も常連だった日本の画廊の参加が減っているらしい。ミズマは売れて全部掛け替えているという話だったが、道理で赤マークが付いてなかった。もう少し売らないといけないような空気だった。
そうか、アーモリーはプレスプレビューにモマの館長を呼んだり、派手だが、まあ、かなり金が回っているのかなーという推測が当たっていなくもなさそうだ。出品できても出品したくない画廊もあるわけだ。出品料が安いからと無審査のサテライトショウに出品する画廊がどんどん増えればアートも面白くなるのではないか? 会場は夕方にはだんだん混んできた。


今回は請求したからだが珍しくプレスに分厚いカタログをくれた。それにしても世界的にアートのスター不在の時代だね。あ、これだ、というのがなかった。パリでは戦後、アートのビッグネームは出なかった。ニューヨークも時代が過ぎてみれば、ある時点から、それは皆無ということになるだろう。残念ながらそのある時点は私がニューヨークに来る以前であろう。
ともあれ撮ってきた写真、登場した再現的な絵画を中心だが、見てください。若い女性は理晃ちゃんで、日本人の男性はミズマのオーナーだ。もし画廊名やアーチスト名を知りたい人がいたら申し出てください。いちいち注釈するのは面倒。そのうちに気が向いたらやります。後で気が付いたが、アルミニュームの海賊の彫刻はNYタイムズの展評のイメージに使われていた。作家はピーター・コフィン、画廊はエマヌエル・ペロティン。それと下着の女性はトニー・マッテリのエロティックな彫刻で、これもNYタイムズが取り上げた。人の見る目は同じだなと言う感慨を持った。
5時半頃には出て、50丁目からM50のバスに乗って5番街に行き、「忘れるのが普通ですよ、もっと難しいことを考えているんだから、どうでもいいことは忘れますよ」と理晃ちゃんに慰められながら、やっと探し当てて、47丁目のかつ濱に行った。「ハー、疲れた」。
まずピア92の「モダーン」から見始めるが、ここは要するにモダーンのコーナーで、サム・フランシス、ヨゼフ・アルバースが目立つ。画廊が売りたい作品だからか、今更これを見てもね、と思ってしまう。とするとモダーンはちょっとやばいのではないか。ともあれ参加画廊は多く時間を取られる。
やっと、さあ、階段を下りて、コンテンポラリーを見るぞ、と右の端から、今年は両サイド見るのは止めて、片側だけ見ていくことにする。そうするとまるで地下鉄が駅を通過するように、次々と景色が変わって過ぎていく。こだわりはない、軽い。しかし心楽しく、、、はならない。
午後4時に近いが、それほど混んでいない。習性で美人とおもしろい作品には食指が動く。つまりシャッターボタンに指が伸びる。今年はその無意識の反応はあまり生じない。


私はちょうど5年ほど前から、写真をベースにしたリアリズム作品を描き始めた。二年前のアーモリーショウは見渡しても、再現的なリアリズム絵画は皆無だった。みんなヘタウマ風の絵で、私の古い作品でも果たしてどうかと思うくらいに関係なかった。それが今年は現実空間を再現する、つまり切ったり張ったり、変形したり色を変えたりしない、再現的写実絵画が増えていたので、もっぱらそれらを撮ることにした。
ジェフ・クーン式のスタンドプレー・アートも目立たない。不況でハッタリがきかなくなったのか? 理晃ちゃんが、「つまらないけど写実画が増えているのが収穫かな?」と的確な批評を口にした。イヤー、これなら私の絵も外れない、ぴったり噛み合うが、、、と思ったけど、たかが1年2年でころころ変わるのだから当てにならない。ロンドン、ベルリン、パリ、ウイーン、ヨーロッパからの参加も多いが、特にニューヨークが落ちるというものでもない。けれどちょっと落ちるか?





ミズマアートの三潴さんがいたので聞いてみた。参加費と運送料などでかなり掛かるようで、まるで医療費の高いアメリカで二つ三つハードな手術をやれるくらい掛かるが、それで売れなければ大損が出るので、今年も常連だった日本の画廊の参加が減っているらしい。ミズマは売れて全部掛け替えているという話だったが、道理で赤マークが付いてなかった。もう少し売らないといけないような空気だった。
そうか、アーモリーはプレスプレビューにモマの館長を呼んだり、派手だが、まあ、かなり金が回っているのかなーという推測が当たっていなくもなさそうだ。出品できても出品したくない画廊もあるわけだ。出品料が安いからと無審査のサテライトショウに出品する画廊がどんどん増えればアートも面白くなるのではないか? 会場は夕方にはだんだん混んできた。





今回は請求したからだが珍しくプレスに分厚いカタログをくれた。それにしても世界的にアートのスター不在の時代だね。あ、これだ、というのがなかった。パリでは戦後、アートのビッグネームは出なかった。ニューヨークも時代が過ぎてみれば、ある時点から、それは皆無ということになるだろう。残念ながらそのある時点は私がニューヨークに来る以前であろう。
ともあれ撮ってきた写真、登場した再現的な絵画を中心だが、見てください。若い女性は理晃ちゃんで、日本人の男性はミズマのオーナーだ。もし画廊名やアーチスト名を知りたい人がいたら申し出てください。いちいち注釈するのは面倒。そのうちに気が向いたらやります。後で気が付いたが、アルミニュームの海賊の彫刻はNYタイムズの展評のイメージに使われていた。作家はピーター・コフィン、画廊はエマヌエル・ペロティン。それと下着の女性はトニー・マッテリのエロティックな彫刻で、これもNYタイムズが取り上げた。人の見る目は同じだなと言う感慨を持った。
5時半頃には出て、50丁目からM50のバスに乗って5番街に行き、「忘れるのが普通ですよ、もっと難しいことを考えているんだから、どうでもいいことは忘れますよ」と理晃ちゃんに慰められながら、やっと探し当てて、47丁目のかつ濱に行った。「ハー、疲れた」。
スポンサーサイト
「2010年、東京のいささか異常」
日本で犬を飼う人が増えたことについて、石原慎太郎東京都知事が産経新聞1月4日で、「ああしたペットへの愛着の姿はいささか異常な気がしてならない。あれが一種の代行だとしたなら、人々は実は何を求めながらかなわずにいるのだろうか?」と書いている。「ああした現象は実は、この社会における人間の関わりが本質的に崩壊してきているという表示ではあるまいか。そうしてその原因は65年前の戦争以来、この国だけにはほかのいかなる国にもあり得なかった平和の存続と緊張の欠落、それがもたらしたいたずらな物資的繁栄によるものではなかろうか」と推測している。
隅田川河岸に林立する高層マンション
しかし私は都会での人間関係の希薄さが原因と推測する。その基本は50年ほども前に始まっている住宅の建築様式の変化にあると思う。コンクリートで遮られた人々は人間的なぬくもりをその住まいから失った。今やその環境から生まれ育った人たちが社会の大部分を占めるようになって、それにインターネットなどのコミュニケーション手段の転換が加わって、基本的なコミュニケーションのあり方が変わってしまった。そうしてそれだけではなくて、同時進行で相互監視体制が際限もなく強化されてしまった。言わば器だけではなくて精神の面でも閉鎖社会化が進んでしまったのである。プライバシーに対するヒステリックなほどの規制とそれへの気遣いで今の社会は閉塞状態である。あの「コミケ」などはそういう閉塞状況が生み出した怪奇現象である。若い人の突出するエネルギーを、「パンツくらい見えたって、見たっていいじゃないか」という大人のゆとりで大目に見ると言うことが出来ない社会になっている。ヒステリックに暴き立て、その人の社会的地位まで奪う。巨大メディアが現代の魔女狩りを推進している。かつて日本がこれほど陳腐になった時代は無いのではないだろうか。
コミケの会場 2009年12月
昔の日本は木造住宅で、いくらでも隣人の生活を見ることができた。覗かなくても自然に見えた。視線の見通しがよいことは精神の風通しも良かった。子供は自然に性を学んだ。そこにはもっとおおらかで自然なコミュニケーションが成立していた。そこには毒も含まれたが、元々ある毒を自然の形で学んだのである。それが今日では厚いコンクリートの壁が、生身の人間を完璧に隔ててしまった。壁に耳あり障子に目ありということわざは死語になった。完璧なプライバシーの保護が達成されて、個々の人は孤立を強いられる。そうして、ネットワークが、仮想世界が、彼らのコミュニケーションの唯一の手段となる。リアルなセックスは見えなくなり、抽象化されたマンガのセックスが人々の欲望の対象となる。リアルなものは単に美しくない。そこには醜も含まれている。だがもう人々はその醜に耐えられない。純化された美だけの世界、抽象の世界に落ちる。グレーの大群衆が東へ西へと大移動している東京ビッグサイトで、彼らの意志の先には抽象化された美しいセックスの世界、巨大な眼と乳房と臀部を持ったマンガの幼女たちのパンツが、秘められた純粋な性の旗印として、完璧に画一的なその姿を至る所でひるがえす。

しかし私は都会での人間関係の希薄さが原因と推測する。その基本は50年ほども前に始まっている住宅の建築様式の変化にあると思う。コンクリートで遮られた人々は人間的なぬくもりをその住まいから失った。今やその環境から生まれ育った人たちが社会の大部分を占めるようになって、それにインターネットなどのコミュニケーション手段の転換が加わって、基本的なコミュニケーションのあり方が変わってしまった。そうしてそれだけではなくて、同時進行で相互監視体制が際限もなく強化されてしまった。言わば器だけではなくて精神の面でも閉鎖社会化が進んでしまったのである。プライバシーに対するヒステリックなほどの規制とそれへの気遣いで今の社会は閉塞状態である。あの「コミケ」などはそういう閉塞状況が生み出した怪奇現象である。若い人の突出するエネルギーを、「パンツくらい見えたって、見たっていいじゃないか」という大人のゆとりで大目に見ると言うことが出来ない社会になっている。ヒステリックに暴き立て、その人の社会的地位まで奪う。巨大メディアが現代の魔女狩りを推進している。かつて日本がこれほど陳腐になった時代は無いのではないだろうか。

昔の日本は木造住宅で、いくらでも隣人の生活を見ることができた。覗かなくても自然に見えた。視線の見通しがよいことは精神の風通しも良かった。子供は自然に性を学んだ。そこにはもっとおおらかで自然なコミュニケーションが成立していた。そこには毒も含まれたが、元々ある毒を自然の形で学んだのである。それが今日では厚いコンクリートの壁が、生身の人間を完璧に隔ててしまった。壁に耳あり障子に目ありということわざは死語になった。完璧なプライバシーの保護が達成されて、個々の人は孤立を強いられる。そうして、ネットワークが、仮想世界が、彼らのコミュニケーションの唯一の手段となる。リアルなセックスは見えなくなり、抽象化されたマンガのセックスが人々の欲望の対象となる。リアルなものは単に美しくない。そこには醜も含まれている。だがもう人々はその醜に耐えられない。純化された美だけの世界、抽象の世界に落ちる。グレーの大群衆が東へ西へと大移動している東京ビッグサイトで、彼らの意志の先には抽象化された美しいセックスの世界、巨大な眼と乳房と臀部を持ったマンガの幼女たちのパンツが、秘められた純粋な性の旗印として、完璧に画一的なその姿を至る所でひるがえす。