ギリシャの旅 クレタの攻防
実はクレタはつまらなかったと思い込んでいた。それは行く予定のところが1日で終わってしまって2日目に行くところを発見できなかったからだ。インフォメーションで相談したら、港の堤防を突端までジョギングするか、イラクリオンをぐるっと取り囲んでいる城壁の上をジョギングするかだといった。つまりイラクリオンから日帰りで行けるめぼしい観光地がない。ゼウスが生まれたという穴があるなんて冗談のようなものだ。
それと期待してそのために来たような目的地のクノッソス神殿に失望した。というのはかなり現代の素材で手を加えて修復してしまっているからだ。コンクリートとか木材で作られた迷宮なんて冗談だろうと思ってしまう。映画のセットではあるまいし、本当にどうだったか分からないじゃないか? と思ってしまう。ところがこれは後に調査した結果、考古学者たちはこれを元に戻すのは不可能だと判断した。どうやら業者が人を呼ぶためにいろいろやってしまったらしいのだ。

クノッソス宮殿の遺構 修復された建物と絵のレプリカ
それでもクノッソス行きのバスは満員だったし、後に見た何も手を加えていないデルフィより、何倍もの観光客が押しかけていた。やっぱり石だけではどこも同じで、とりつく島もないと言うことだろう。
まあ私が期待したのは、ラビリンス(迷宮)の宮殿という売りで、あの神話を読むと道に迷うくらいだから、相当に広くて複雑だろうと思ってしまう。けれど実際神話を現実に当てはめるのも無理があるのだと思う。見渡せてしまうくらいの広さだから迷うわけ無いだろうと思ってしまうが、まあいいか。

考古学博物館 踊るレディ クノッソス(1500~1450BC) とフレスコ画(1500~1450BC) タコの模様のある粘土瓶と粘土のあぶみ壺 新宮殿時代(1500~1450BC)
ともあれ、所々修復済みの遺構を見て、大して広くないし、単純だから、直ぐに見終わってしまい、後はそこに本物の発掘品があるという考古学博物館に期待した。ところがカフェもないという。無いわけで会場はコ形のワンフロアーだけで、一回りすると終わってしまう。何だ、と思ったが、ここの収蔵品は流石に良かった。壁画も遺跡はレプリカだがこっちは本物がある。一部は修復されない元のままの絵もあり、これは素晴らしい。ともあれ僅かの展示でもミノア文明の一端を推測できたと思った。
けれど短時間で見終わるので、次いで歴史博物館に行った。ここには二点のエル・グレコの作品があるのが売りだ。凄いねえ、アーチストは。彼の銅像が彼の名を冠した公園にあった。私は印刷物で見たときから、グレコの極めて頭を小さく表現するスタイルに奇異の感を持った。けれど今度イスタンブール、アテネ、それに彼が育ったクレタに来て、彼のそのスタイルの元型を見た。歴史美術館にもその頭を小さく手脚身体を大きく描いたビザンチンのキリスト教絵画がかなり収蔵されていて、楽しむ事が出来た。

歴史博物館 エル・グレコの絵 ビザンチンのイコン
結局グレコはビザンチンのイコンを見て育ったからあの絵が生まれ、そういう背景があったからこそヨーロッパ画壇で大きくなったと思われた。ちょうど私が漫画を見て育って、漫画風の絵を描いているようなものだ。断っておくが今流行のジャパニーズ・ポップじゃないよ。あんなのは要領の良いただのいただきだ。エル・グレコは凄い。故郷が小品2点しか持っていないことに、彼は生きていたら失望しただろう。
さてこの美術館で戦時中ドイツ軍の兵士として駐留した青年が写真に撮って色を施して絵にした水彩画の展覧会をやっていた。彼は写真と絵を残して引き揚げたのである。そこで興味を持って調べてみたらクレタをめぐるドイツとイギリスの攻防戦があった。ナチスドイツは多大の損害を被りながらクレタに落下傘降下をして占領した。道理で、街が面白くないと思った。空襲もあって街は破壊され、戦後再建されたのではないだろうか?

港にあるビザンチン時代の砦 クレタの小型富士
記録によれば紀元前にミノア文明はナゾの絶滅を経験しているという。初日の夕方に港に行き、ベネチア時代の要塞を過ぎてかなり沖まで突堤を進んだのだが、振り返ってみると、船が係留された港の向こうに、小さな富士山のような休火山とおぼしき山が見えた。旅行案内にそういう記述が無いが、この島は火山島でかつて噴火したことがあるのではないかと推測した。
次の日城壁の上に登ってみたがだだっ広いだけで人影もない道が続いていた。炎天下で面白くもなかった。ともかく次の日は完全に無駄になったと思えた。

エーゲ海の深い青 土産物を買った賑やかな商店通り
ところでカストロホテルは最上階の屋上に接した部屋でジャグジ・バスがあり(私がそこに入っている写真はチャーミングだけど出しません)、シャワールームもある4部屋で、47インチのテレビが付いていた。そこで人気の(といっていた)鳩山首相辞任のニュースを見た。
バルコニーから見た海は、本当に深い、記憶するのが困難な素晴らしい青だった。それからホテルで教えられて行ったレストランはもう感激ものの美味しさであった。何しろもう海産物が新鮮で美味しい。
次の夜も来られることを喜んだが、次の夜は料理を頼んだ後で停電し、食べている最中に二度目の停電で、一度目ほど感激の味ではなく期待をはぐらかされた。センターにある賑やかな商店通りでおみやげのオリーブ石けんを買って、私たちはクレタを去った。
それと期待してそのために来たような目的地のクノッソス神殿に失望した。というのはかなり現代の素材で手を加えて修復してしまっているからだ。コンクリートとか木材で作られた迷宮なんて冗談だろうと思ってしまう。映画のセットではあるまいし、本当にどうだったか分からないじゃないか? と思ってしまう。ところがこれは後に調査した結果、考古学者たちはこれを元に戻すのは不可能だと判断した。どうやら業者が人を呼ぶためにいろいろやってしまったらしいのだ。


クノッソス宮殿の遺構 修復された建物と絵のレプリカ
それでもクノッソス行きのバスは満員だったし、後に見た何も手を加えていないデルフィより、何倍もの観光客が押しかけていた。やっぱり石だけではどこも同じで、とりつく島もないと言うことだろう。
まあ私が期待したのは、ラビリンス(迷宮)の宮殿という売りで、あの神話を読むと道に迷うくらいだから、相当に広くて複雑だろうと思ってしまう。けれど実際神話を現実に当てはめるのも無理があるのだと思う。見渡せてしまうくらいの広さだから迷うわけ無いだろうと思ってしまうが、まあいいか。



考古学博物館 踊るレディ クノッソス(1500~1450BC) とフレスコ画(1500~1450BC) タコの模様のある粘土瓶と粘土のあぶみ壺 新宮殿時代(1500~1450BC)
ともあれ、所々修復済みの遺構を見て、大して広くないし、単純だから、直ぐに見終わってしまい、後はそこに本物の発掘品があるという考古学博物館に期待した。ところがカフェもないという。無いわけで会場はコ形のワンフロアーだけで、一回りすると終わってしまう。何だ、と思ったが、ここの収蔵品は流石に良かった。壁画も遺跡はレプリカだがこっちは本物がある。一部は修復されない元のままの絵もあり、これは素晴らしい。ともあれ僅かの展示でもミノア文明の一端を推測できたと思った。
けれど短時間で見終わるので、次いで歴史博物館に行った。ここには二点のエル・グレコの作品があるのが売りだ。凄いねえ、アーチストは。彼の銅像が彼の名を冠した公園にあった。私は印刷物で見たときから、グレコの極めて頭を小さく表現するスタイルに奇異の感を持った。けれど今度イスタンブール、アテネ、それに彼が育ったクレタに来て、彼のそのスタイルの元型を見た。歴史美術館にもその頭を小さく手脚身体を大きく描いたビザンチンのキリスト教絵画がかなり収蔵されていて、楽しむ事が出来た。


歴史博物館 エル・グレコの絵 ビザンチンのイコン
結局グレコはビザンチンのイコンを見て育ったからあの絵が生まれ、そういう背景があったからこそヨーロッパ画壇で大きくなったと思われた。ちょうど私が漫画を見て育って、漫画風の絵を描いているようなものだ。断っておくが今流行のジャパニーズ・ポップじゃないよ。あんなのは要領の良いただのいただきだ。エル・グレコは凄い。故郷が小品2点しか持っていないことに、彼は生きていたら失望しただろう。
さてこの美術館で戦時中ドイツ軍の兵士として駐留した青年が写真に撮って色を施して絵にした水彩画の展覧会をやっていた。彼は写真と絵を残して引き揚げたのである。そこで興味を持って調べてみたらクレタをめぐるドイツとイギリスの攻防戦があった。ナチスドイツは多大の損害を被りながらクレタに落下傘降下をして占領した。道理で、街が面白くないと思った。空襲もあって街は破壊され、戦後再建されたのではないだろうか?


港にあるビザンチン時代の砦 クレタの小型富士
記録によれば紀元前にミノア文明はナゾの絶滅を経験しているという。初日の夕方に港に行き、ベネチア時代の要塞を過ぎてかなり沖まで突堤を進んだのだが、振り返ってみると、船が係留された港の向こうに、小さな富士山のような休火山とおぼしき山が見えた。旅行案内にそういう記述が無いが、この島は火山島でかつて噴火したことがあるのではないかと推測した。
次の日城壁の上に登ってみたがだだっ広いだけで人影もない道が続いていた。炎天下で面白くもなかった。ともかく次の日は完全に無駄になったと思えた。


エーゲ海の深い青 土産物を買った賑やかな商店通り
ところでカストロホテルは最上階の屋上に接した部屋でジャグジ・バスがあり(私がそこに入っている写真はチャーミングだけど出しません)、シャワールームもある4部屋で、47インチのテレビが付いていた。そこで人気の(といっていた)鳩山首相辞任のニュースを見た。
バルコニーから見た海は、本当に深い、記憶するのが困難な素晴らしい青だった。それからホテルで教えられて行ったレストランはもう感激ものの美味しさであった。何しろもう海産物が新鮮で美味しい。
次の夜も来られることを喜んだが、次の夜は料理を頼んだ後で停電し、食べている最中に二度目の停電で、一度目ほど感激の味ではなく期待をはぐらかされた。センターにある賑やかな商店通りでおみやげのオリーブ石けんを買って、私たちはクレタを去った。
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ギリシャの旅 サントリーニ島のサンセットとそよ風
フェリー24時間ストライキのお陰で、予想外の出費を強いられつつ、飛行機でサントリーニ島に飛んだ。遅れたがともあれ午前中に着いた。インフォメーションで聞いてみると、バスはなくタクシーで20から25ユーロといった。運転手が手招きしているので行ったら、同乗者を探していたがいないので、私たちだけで出発した。グーグルの地図で見当をつけたのとは違って、フィニキア・ホテルは、中心地フィラからイアに近づいた西側海岸の道路沿いにあった。白い建物が海岸に向かっていくらか散見されるが、海岸からは離れている。タクシー代は27ユーロだった。
レセプショニストの女性に部屋に案内されたら一番上の部屋で見晴らしも風通しも良かったのでホッとした。ストライキの事は知らないといい、道理で2時といっていたのに早いと思ったといった。「サンセットはこちらの方角になります」といった。サンセット目的の人が多いのだろう。
部屋はコンクリートで一体型に作られている。家具などもシンプルな素朴な形だ。バスルームも広くてコンクリート地のままのプリンシプルな印象。これも素朴な木綿の白いカーテンをはためかせて心地よい風が吹き抜ける。バルコニーからホテルのプールの向こうに広がる海が見晴るかせる。

サントリーニ島 空港が見える ホテル・フィニキア バルコニーからの風景
とにかく屋上にあるレストランに行ってランチを食べたが、評判通りフィニキア・レストランの味は良かった。ただしワインは飲まず。その後イアの方向に歩けばあるというミニ・マーケットに出かけた。途中の景色はサボテンその他珍しい植物が生え、小鳥がさえずり、ロバが草を食みまさにリゾート地の趣だ。
ミニ・マーケットでサントリーニ島産のレッドワインを買ったが、9ユーロくらいだった。もちろん目的の水も買い、その他にチーズなども買ったが、日本のようにリゾート地値段ではなく、町中と同じ安さだった。この点はアテネでも同じだったと思う。

開放的なホテルの部屋 手前左にバスルーム 声を掛けたら寄ってきたロバ
ワインを飲んだら寝てしまった。心地よい風に身をまかせて。この日は1日どこにも行かない決定をしたのである。もう2、3日はいたかったねと話し合ったが実はもうこの後は予約が一杯だったのである。夕方になってそろそろ日が沈み始めたので、撮影の準備をして待ち構えたが、部屋からの眺めには電線が入ってしまうので、あらかじめ調べておいた下の駐車場に移動して撮影した。ニコンD90だから、ビデオで撮り、時々写真に切り替えた。天気も良く良い写真が撮れたと思う。
夜も上のフィニキア・レストランに行き家族連れやカップルに囲まれてディナーを取ったが、味は申し分なかった。

サンセット 午後8時過ぎ
翌日は朝食の後、12時前にチェックアウトした。近くにあるバス停で来るはずのバスを30分以上も待ったが来ないので、強い日差しの中、重い荷物を引っ張ってイアまで歩いた。ちょうど中間くらいに昨日行ったミニ・マーケットがある感じで、また水を買った。前から来るバスの車掌が手を挙げて合図するので、こっちも手を挙げたが、かみさんによるとそのバスは我々を無視して通過してしまったバスだという。私は気が付かなかったが、これはちょっとだけ不快な体験だった。
ところで評判のイアは確かに東側の海の風景はキレイだが、完璧に観光地化されて、建て込んだホテルと、どこまでもレストランと土産物屋が続く通りが中心で、島の端まで行ったらそこから海岸へ急坂を下りる形になっていたので、下りないで引き返した。重いバッグを引っ張っていたのである。かみさんはその通りで黒い溶岩から作った手製のネックレスを買った。私の作品ですと若い店主は喜んでいたが、私は、その街の白い建物と近くの島を描いた絵やポスターなども売っていたが、まったく興味が持てないので何も買わなかったが、かみさんはトートバッグも二枚ほど買った。

イアの東の海 イアの街 アートストア 蒼い海、白い建物と階段の絵
バス停でもうバスの来る時間だったが、客を運んできたタクシーの運転手が、フィラまで14ユーロというので、それに乗ってしまった。バスに不信感を持ってしまったのである。どこが一番の賑やかな場所か運転手が教えてくれたが、またもや土産物屋とレストランの通りだった。インターネットで調べてきたいつも混んでいるという店に行って食事した。混んでいる理由は安いからだと発見した。
この後いろいろありましたが、省略。とにかく5:55pm発のフェリーに間に合うようにバスに乗った。この港に下りる道は高い崖をジグザグに縫う急坂で、大きなバスで下りていくのは怖かった。ところでフェリーは一時間以上待たされた。乗ってみると私たちは上の指定席に案内された。一般の自由席ではなかった。頼んでそのチケットを買ったわけではない。1人46ユーロくらいだったと思う。ところが乗り場の改札に係員が居て一人1ユーロ以下の税金を徴収された。それでも低いアングルからエーゲ海を見ることになり、その上夕方には曇ってきて、船からエーゲ海を見る期待はそらされた。テレビでは、銃で武装したソルジャーがロープを伝って船に侵入する影像を繰り返していた。フライング・キャット、高速フェリーだが、クレタまではかなり時間が掛かった。
レセプショニストの女性に部屋に案内されたら一番上の部屋で見晴らしも風通しも良かったのでホッとした。ストライキの事は知らないといい、道理で2時といっていたのに早いと思ったといった。「サンセットはこちらの方角になります」といった。サンセット目的の人が多いのだろう。
部屋はコンクリートで一体型に作られている。家具などもシンプルな素朴な形だ。バスルームも広くてコンクリート地のままのプリンシプルな印象。これも素朴な木綿の白いカーテンをはためかせて心地よい風が吹き抜ける。バルコニーからホテルのプールの向こうに広がる海が見晴るかせる。


サントリーニ島 空港が見える ホテル・フィニキア バルコニーからの風景
とにかく屋上にあるレストランに行ってランチを食べたが、評判通りフィニキア・レストランの味は良かった。ただしワインは飲まず。その後イアの方向に歩けばあるというミニ・マーケットに出かけた。途中の景色はサボテンその他珍しい植物が生え、小鳥がさえずり、ロバが草を食みまさにリゾート地の趣だ。
ミニ・マーケットでサントリーニ島産のレッドワインを買ったが、9ユーロくらいだった。もちろん目的の水も買い、その他にチーズなども買ったが、日本のようにリゾート地値段ではなく、町中と同じ安さだった。この点はアテネでも同じだったと思う。


開放的なホテルの部屋 手前左にバスルーム 声を掛けたら寄ってきたロバ
ワインを飲んだら寝てしまった。心地よい風に身をまかせて。この日は1日どこにも行かない決定をしたのである。もう2、3日はいたかったねと話し合ったが実はもうこの後は予約が一杯だったのである。夕方になってそろそろ日が沈み始めたので、撮影の準備をして待ち構えたが、部屋からの眺めには電線が入ってしまうので、あらかじめ調べておいた下の駐車場に移動して撮影した。ニコンD90だから、ビデオで撮り、時々写真に切り替えた。天気も良く良い写真が撮れたと思う。
夜も上のフィニキア・レストランに行き家族連れやカップルに囲まれてディナーを取ったが、味は申し分なかった。


サンセット 午後8時過ぎ
翌日は朝食の後、12時前にチェックアウトした。近くにあるバス停で来るはずのバスを30分以上も待ったが来ないので、強い日差しの中、重い荷物を引っ張ってイアまで歩いた。ちょうど中間くらいに昨日行ったミニ・マーケットがある感じで、また水を買った。前から来るバスの車掌が手を挙げて合図するので、こっちも手を挙げたが、かみさんによるとそのバスは我々を無視して通過してしまったバスだという。私は気が付かなかったが、これはちょっとだけ不快な体験だった。
ところで評判のイアは確かに東側の海の風景はキレイだが、完璧に観光地化されて、建て込んだホテルと、どこまでもレストランと土産物屋が続く通りが中心で、島の端まで行ったらそこから海岸へ急坂を下りる形になっていたので、下りないで引き返した。重いバッグを引っ張っていたのである。かみさんはその通りで黒い溶岩から作った手製のネックレスを買った。私の作品ですと若い店主は喜んでいたが、私は、その街の白い建物と近くの島を描いた絵やポスターなども売っていたが、まったく興味が持てないので何も買わなかったが、かみさんはトートバッグも二枚ほど買った。


イアの東の海 イアの街 アートストア 蒼い海、白い建物と階段の絵
バス停でもうバスの来る時間だったが、客を運んできたタクシーの運転手が、フィラまで14ユーロというので、それに乗ってしまった。バスに不信感を持ってしまったのである。どこが一番の賑やかな場所か運転手が教えてくれたが、またもや土産物屋とレストランの通りだった。インターネットで調べてきたいつも混んでいるという店に行って食事した。混んでいる理由は安いからだと発見した。
この後いろいろありましたが、省略。とにかく5:55pm発のフェリーに間に合うようにバスに乗った。この港に下りる道は高い崖をジグザグに縫う急坂で、大きなバスで下りていくのは怖かった。ところでフェリーは一時間以上待たされた。乗ってみると私たちは上の指定席に案内された。一般の自由席ではなかった。頼んでそのチケットを買ったわけではない。1人46ユーロくらいだったと思う。ところが乗り場の改札に係員が居て一人1ユーロ以下の税金を徴収された。それでも低いアングルからエーゲ海を見ることになり、その上夕方には曇ってきて、船からエーゲ海を見る期待はそらされた。テレビでは、銃で武装したソルジャーがロープを伝って船に侵入する影像を繰り返していた。フライング・キャット、高速フェリーだが、クレタまではかなり時間が掛かった。
独立記念日のコニーアイランド
独立記念日のコニーアイランドは盛りあがると聞いたので、日曜日に重なったが好天であるしQトレインに乗って30分くらいだから出かけていった。ただし調べなかったので、ホットドッグの早食い競争には間に合わなかった。私は、そういう競争にまったく関心がないのである。どこか異常なのか?
ただコニーアイランドといえば、1920年代にニューヨークの画家たちが絵を残しているので、それにまた永井荷風の「アメリカ物語」にも出てきたり、それから私の飲み仲間だったイラストレーターのケイさんが死んだときに灰を撒きに行ったりしたし、大昔、年はいいませんが、神戸でコニーアイランド・ショウに行ったりしたので、何かと縁がある。数年前にはアメリカ人の友達と、そばのブライトンビーチに泳ぎに行ったこともある。その時はほとんど寂れているくらいのビーチだった。
何か絵の資料になるようないい写真が撮れないものかと思った。以前にも行ったが絵になるような写真は撮れなかった。地下鉄駅を出ると雑多な人でごった返している。まずビーチに向かったが、ロボコップかガンダムのような格好をしたおじさんが歩いてくるので写真に撮った。コスプレだろうが暑いのにご苦労なことだ。ところでビーチに着いたら、もの凄い数のパラソルと水着の人々でごった返している印象。暑いし隙間もない砂浜をスニーカーで海際まで行くのはおっくうなので中止した。 それでかなり沖まで続いている長い桟橋を歩いて先端まで行った。

Brooklynのロボコップ 桟橋で釣りをする人々
人々はちょっと私が親しみを感じにくいような人々に思われた。白人、黒人、ヒスパニック、アジア人など、ごっちゃまぜだ。多分ニューヨーク中から近場で楽しみたい人が押しかけている。不況の夏だから、特にコニーアイランドのビーチが混んでしまったのかも知れない。地下鉄駅にして5~6駅くらいの距離の海岸を埋め尽くしているはずだ。
前述の永井荷風の「隅田川」で、「夕月に行水をつかっている女の姿の見えることもあったが、たいがいはぞっとしない女房ばかりなので、」というくだりを思い出してしまった。まあこれは今ならセクハラだろうが、まあ年取ると男も女も、ぞっとしない体型になるのでお互い様だが、ちょっとキレイだなと思うのはビキニでも10代の少女たちで、まあ大人の女になると、同じビキニでも、毛は出ているは、入れ墨はしているはで、つい、荷風のことばを思い出した次第だ。
桟橋の先まで行ったら釣りをしている人達がいたが、イスタンブールのような釣果はなかったようである。ただ先まで来ると流石によい風が吹いてきた。

はるか彼方までビーチを埋め尽くす人々
コニーアイランドの方は昔と違って、凄い機械で人々は空を舞っている。ジェットコースターどころじゃない。人間を鉄のかたまりに結わえ付けて束にして空に放り投げている。これでも「エデンの東」の時代のようにロマンスが生まれるのだろうか? けれど暑いし海岸ほどに混んでいない。それで眺めたが、やっぱり私の絵にはなりにくい。こういう遊園地は、昔は時代を象徴しただろうけど、どんなに凄い遊具が開発されても今はただの遊び場だと思う。大観覧車も影が薄くなった。

空に舞う人々 人間ハンマー

エレクトロ・スピン
まあ、私が総じて面白くなかったのは、連れがいなかったからだろう。こんなところに黒いシャツを着て一人で出かけるヤツは阿呆である。時々カメラを持ったそういう男がいるが、私もその一人だった。暑いし、水を買っただけで、話題のホットドッグもちょっと迷ったが、買わなかった。まあ、楽しめない男なのである。3時過ぎには帰ってきた。今年のジュライフォースは夕方になっても36℃あった。
ただコニーアイランドといえば、1920年代にニューヨークの画家たちが絵を残しているので、それにまた永井荷風の「アメリカ物語」にも出てきたり、それから私の飲み仲間だったイラストレーターのケイさんが死んだときに灰を撒きに行ったりしたし、大昔、年はいいませんが、神戸でコニーアイランド・ショウに行ったりしたので、何かと縁がある。数年前にはアメリカ人の友達と、そばのブライトンビーチに泳ぎに行ったこともある。その時はほとんど寂れているくらいのビーチだった。
何か絵の資料になるようないい写真が撮れないものかと思った。以前にも行ったが絵になるような写真は撮れなかった。地下鉄駅を出ると雑多な人でごった返している。まずビーチに向かったが、ロボコップかガンダムのような格好をしたおじさんが歩いてくるので写真に撮った。コスプレだろうが暑いのにご苦労なことだ。ところでビーチに着いたら、もの凄い数のパラソルと水着の人々でごった返している印象。暑いし隙間もない砂浜をスニーカーで海際まで行くのはおっくうなので中止した。 それでかなり沖まで続いている長い桟橋を歩いて先端まで行った。


Brooklynのロボコップ 桟橋で釣りをする人々
人々はちょっと私が親しみを感じにくいような人々に思われた。白人、黒人、ヒスパニック、アジア人など、ごっちゃまぜだ。多分ニューヨーク中から近場で楽しみたい人が押しかけている。不況の夏だから、特にコニーアイランドのビーチが混んでしまったのかも知れない。地下鉄駅にして5~6駅くらいの距離の海岸を埋め尽くしているはずだ。
前述の永井荷風の「隅田川」で、「夕月に行水をつかっている女の姿の見えることもあったが、たいがいはぞっとしない女房ばかりなので、」というくだりを思い出してしまった。まあこれは今ならセクハラだろうが、まあ年取ると男も女も、ぞっとしない体型になるのでお互い様だが、ちょっとキレイだなと思うのはビキニでも10代の少女たちで、まあ大人の女になると、同じビキニでも、毛は出ているは、入れ墨はしているはで、つい、荷風のことばを思い出した次第だ。
桟橋の先まで行ったら釣りをしている人達がいたが、イスタンブールのような釣果はなかったようである。ただ先まで来ると流石によい風が吹いてきた。


はるか彼方までビーチを埋め尽くす人々
コニーアイランドの方は昔と違って、凄い機械で人々は空を舞っている。ジェットコースターどころじゃない。人間を鉄のかたまりに結わえ付けて束にして空に放り投げている。これでも「エデンの東」の時代のようにロマンスが生まれるのだろうか? けれど暑いし海岸ほどに混んでいない。それで眺めたが、やっぱり私の絵にはなりにくい。こういう遊園地は、昔は時代を象徴しただろうけど、どんなに凄い遊具が開発されても今はただの遊び場だと思う。大観覧車も影が薄くなった。


空に舞う人々 人間ハンマー

エレクトロ・スピン
まあ、私が総じて面白くなかったのは、連れがいなかったからだろう。こんなところに黒いシャツを着て一人で出かけるヤツは阿呆である。時々カメラを持ったそういう男がいるが、私もその一人だった。暑いし、水を買っただけで、話題のホットドッグもちょっと迷ったが、買わなかった。まあ、楽しめない男なのである。3時過ぎには帰ってきた。今年のジュライフォースは夕方になっても36℃あった。
ギリシャの旅 アテネ アクロポリスの丘
イスタンブールからギリシャへ、午前中にオリンピック航空で移動。あらかじめチケットを購入していたので、ストの心配をしたが、幸い国営オリンピック航空は旅行中ストライキをしなかった。不思議に朝の便だけ料金が安く、一人6000円くらいだった。空港からはバスにした。ホテルは地下鉄メタクソジオ駅のすぐ側のクリスタル・シティ・ホテルである。ちょっとビジネスホテル風だが、悪くない。第一移動が楽である。
昼過ぎには着いたので、直ぐにアクロポリスの丘に出かける。地図で見て、入り口に近いと思えるモナスティラキ駅に行ったが、地下から出ると強い日差し、ショートパンツで肌を露出した若い女性たちが闊歩しているので、イスタンブールとの違いを強く感じる。駅のそばにはアドリアヌス帝の図書館の遺構がある、その遙か向こうにアクロポリスの丘が見える。行き方をおじさんに聞いて、近道は、まっすぐ登れと言うので、それに従う。始めにかみさんが帽子を買うので、私もついでに一つ買った。8ユーロである。以降この帽子で強い日差しを避けた。結構急な坂を登って、ようやく入り口にたどり着いたが、その前に近くの岩山に登ってアテネの街を撮る。
急な坂を登って、遂に何度写真や映像で見たか知れないあのパルテノン神殿にたどり着く。真っ青な空、白い列柱。感激ということはないが、やっぱり遂に来たかという感慨はある。実物を見て何がどうということはない。いいアングル以外の方向からも見て、全体的な理解が深まる。神殿のうしろに展望台があった。それと有名な婦人像柱のあるエレクティオンをぐるっと一回りして写真に撮る。ここで行った証拠に私の撮ったパルテノン神殿をお見せします。

パルテノン神殿 統一ストライキで死者まで出て観光客が少ない? 右は女性像柱のエレクティオン
降りてきたところで座っていた女性がぴょっこり挨拶する。日本の学生さん。別れるときに彼女をスナップ。彼女「有り難うございます」という。この写真は出しません。この後、岩山からいくらかの神殿や遺跡が見えた古代アゴラ地区に行く。博物館もあって発掘品が展示してある。ここで白人夫妻に写真を撮ろうと提案され、お返しに夫妻を撮る。ここにも立派な神殿もあり、かなり広い範囲に住居跡などの遺構が連なり、遙かなアクロポリスの丘の景観も含めて、アテネの中心地だった古代の繁華を偲ばせる。また柱廊博物館の出土品の展示も興味深い。

撮ってもらった写真 アタロス柱廊博物館 古代アゴラ シモン邸跡地 遙かに丘が見える
この日は麓にあるプラカ地区の坂道にあって繁盛するレストラン街を探しめぐって、紹介されているレストランを見つけてやっと食事にありついた。たくさんの料理から5種類を選べて飲み物も一種がサービス、デザートもついて非常に安いと言う店。しかし思い出してみるとそれほど「美味い」と思ったという記憶がない。ギリシャ料理のバラエティを安く味わった印象。それとも他のことに気を取られたか、食べ過ぎておいしさの記憶が消えてしまったのか?

ギリシャ料理5品とワインとビール アテネの花 プラカ地区
翌日はともあれ明後日のフェリーのチケットを手に入れるつもりで、旅行代理店のあるシンタグマに出かける。広場に出たら大勢の人が道路際に立っていて、間もなく楽隊を先頭に民族的な軍装の兵士たちが足を大きく上げる歩行で行進してきた。聞いていた衛兵の交代儀式が始まったのである。で一部始終を見物し、ビデオに撮った。
その後国立のインフォメーションセンターに行って地図や時刻表をもらった後、旅行代理店をやっと探し当てたが、なんと海の便は全部ストライキで動かないという。ホテルはどこも予約済みであるし、迷ったが、やむなくオリンピック航空でアテネからサントリーニに移動することにした。このチケット代は一人18000円くらいである。

民族軍装の兵隊さんがオイチニオイチニ シンタグマ広場 無名戦士のモニュメントの前の衛兵交代儀式
そんないざこざでこの日の行動が遅くなった。しかし予定通り地下鉄アクロポリス駅へ、ゼウス・オリンピア神殿を見るために行く。駅を出たところにある通りの混んでいるレストランでランチを取ったが、地元の主婦連が来ているだけあって、ここの料理はうまかった。
ここで探していた新アクロポリス美術館があることを発見。ゼウスの門からゼウス・オリンピア神殿を見た後、美術館へ。撮影禁止である。しかし以前にロンドンで、主要なアクロポリスの出土品や装飾レリーフがほとんど英国の大英博物館に来てしまっているのではないかと感じたものであったが、思ったよりも見るものがまだ多く残されていたと言う印象だった。
ケンタウロスの戦いのシリーズなど見応えがあった。完全な形を保つものはほとんど無いが、戦争で破壊されたのだろう。ここでカタログを買った。廉価でハンディな良いカタログである。
このカタログの中でパルテノン神殿を建設したカリスマ的指導者ペリクレスについて、全市民に参政権を与えたとその功をたたえているが、実際彼の「我々の公共的建物は、心を晴れやかにし目を楽しませる」という言葉くらいパルテノン神殿を的確に形容する言葉はない。古代アテネの精神はこのパルテノン神殿によって顕在化されていると言って良いだろう。パルテノン神殿ほど芸術の内容とその形式の関係性について私たちに考えるヒントを与えてくれる芸術作品は他にはないかもしれない。アクロポリスの丘に古代ギリシャの栄光が羽ばたいている。
驚いたのはこの美術館の床は広い範囲にガラスで作られていて、下の階の人々が見える。1階では地下の遺構が見えるようになっているのだが、そのことはつまり、下から見上げれば、上の階の観客を真下から見上げることになる。日本ならプランの段階で潰された筈だ。

ゼウス・オリンピア神殿からアクロポリスの丘を望む ハッピートレイン
この後モナスティラキに行き、ハッピートレインに乗る。6ユーロで、45分くらいアクロポリスの麓を回る。何台も連結した車両が、曲がりくねったプラカ地区のような狭い道路を、まったくぶつからずに縫うように走るのはまったく不思議である。流石科学発祥の地のアテネか? 昨日行ったレストランの前を二度も通り客引きのおじさんに挨拶した。シンタグマで終わりだったらしいが、また出発点のモナスティラキまで乗ってしまったのである。サンドイッチなどを買い、帰り着いたホテルの近くでアムステビールなど買って、ホテルの部屋で食べたサンドイッチは美味しかった。
さてギリシャでは地下鉄などに乗ると私は徹底して観察された。流石にちょっとうんざりするほどにまじまじとほとんどの人に見つめられた。ニューヨークでは私に注目する人など居ない。どうしてかと思うが、日本語で話しかけてくる人も多い。聞くところによると全ギリシャで邦人は700人くらいしかいないらしい。団体の人はバスで移動しているし、個人旅行は若者が多いから、彫りの深い顔立ちの彼らから見れば私は珍しいのかも知れない。いやその上に私は坊主で髭だしまともな日本人とは少し毛色が変わって見えるだろう。地下鉄に老人の乗客が目立つのもニューヨークと異なるところだが、人々は親切で友好的だったし、楽しく過ごせた。
昼過ぎには着いたので、直ぐにアクロポリスの丘に出かける。地図で見て、入り口に近いと思えるモナスティラキ駅に行ったが、地下から出ると強い日差し、ショートパンツで肌を露出した若い女性たちが闊歩しているので、イスタンブールとの違いを強く感じる。駅のそばにはアドリアヌス帝の図書館の遺構がある、その遙か向こうにアクロポリスの丘が見える。行き方をおじさんに聞いて、近道は、まっすぐ登れと言うので、それに従う。始めにかみさんが帽子を買うので、私もついでに一つ買った。8ユーロである。以降この帽子で強い日差しを避けた。結構急な坂を登って、ようやく入り口にたどり着いたが、その前に近くの岩山に登ってアテネの街を撮る。
急な坂を登って、遂に何度写真や映像で見たか知れないあのパルテノン神殿にたどり着く。真っ青な空、白い列柱。感激ということはないが、やっぱり遂に来たかという感慨はある。実物を見て何がどうということはない。いいアングル以外の方向からも見て、全体的な理解が深まる。神殿のうしろに展望台があった。それと有名な婦人像柱のあるエレクティオンをぐるっと一回りして写真に撮る。ここで行った証拠に私の撮ったパルテノン神殿をお見せします。


パルテノン神殿 統一ストライキで死者まで出て観光客が少ない? 右は女性像柱のエレクティオン
降りてきたところで座っていた女性がぴょっこり挨拶する。日本の学生さん。別れるときに彼女をスナップ。彼女「有り難うございます」という。この写真は出しません。この後、岩山からいくらかの神殿や遺跡が見えた古代アゴラ地区に行く。博物館もあって発掘品が展示してある。ここで白人夫妻に写真を撮ろうと提案され、お返しに夫妻を撮る。ここにも立派な神殿もあり、かなり広い範囲に住居跡などの遺構が連なり、遙かなアクロポリスの丘の景観も含めて、アテネの中心地だった古代の繁華を偲ばせる。また柱廊博物館の出土品の展示も興味深い。


撮ってもらった写真 アタロス柱廊博物館 古代アゴラ シモン邸跡地 遙かに丘が見える
この日は麓にあるプラカ地区の坂道にあって繁盛するレストラン街を探しめぐって、紹介されているレストランを見つけてやっと食事にありついた。たくさんの料理から5種類を選べて飲み物も一種がサービス、デザートもついて非常に安いと言う店。しかし思い出してみるとそれほど「美味い」と思ったという記憶がない。ギリシャ料理のバラエティを安く味わった印象。それとも他のことに気を取られたか、食べ過ぎておいしさの記憶が消えてしまったのか?


ギリシャ料理5品とワインとビール アテネの花 プラカ地区
翌日はともあれ明後日のフェリーのチケットを手に入れるつもりで、旅行代理店のあるシンタグマに出かける。広場に出たら大勢の人が道路際に立っていて、間もなく楽隊を先頭に民族的な軍装の兵士たちが足を大きく上げる歩行で行進してきた。聞いていた衛兵の交代儀式が始まったのである。で一部始終を見物し、ビデオに撮った。
その後国立のインフォメーションセンターに行って地図や時刻表をもらった後、旅行代理店をやっと探し当てたが、なんと海の便は全部ストライキで動かないという。ホテルはどこも予約済みであるし、迷ったが、やむなくオリンピック航空でアテネからサントリーニに移動することにした。このチケット代は一人18000円くらいである。


民族軍装の兵隊さんがオイチニオイチニ シンタグマ広場 無名戦士のモニュメントの前の衛兵交代儀式
そんないざこざでこの日の行動が遅くなった。しかし予定通り地下鉄アクロポリス駅へ、ゼウス・オリンピア神殿を見るために行く。駅を出たところにある通りの混んでいるレストランでランチを取ったが、地元の主婦連が来ているだけあって、ここの料理はうまかった。
ここで探していた新アクロポリス美術館があることを発見。ゼウスの門からゼウス・オリンピア神殿を見た後、美術館へ。撮影禁止である。しかし以前にロンドンで、主要なアクロポリスの出土品や装飾レリーフがほとんど英国の大英博物館に来てしまっているのではないかと感じたものであったが、思ったよりも見るものがまだ多く残されていたと言う印象だった。
ケンタウロスの戦いのシリーズなど見応えがあった。完全な形を保つものはほとんど無いが、戦争で破壊されたのだろう。ここでカタログを買った。廉価でハンディな良いカタログである。
このカタログの中でパルテノン神殿を建設したカリスマ的指導者ペリクレスについて、全市民に参政権を与えたとその功をたたえているが、実際彼の「我々の公共的建物は、心を晴れやかにし目を楽しませる」という言葉くらいパルテノン神殿を的確に形容する言葉はない。古代アテネの精神はこのパルテノン神殿によって顕在化されていると言って良いだろう。パルテノン神殿ほど芸術の内容とその形式の関係性について私たちに考えるヒントを与えてくれる芸術作品は他にはないかもしれない。アクロポリスの丘に古代ギリシャの栄光が羽ばたいている。
驚いたのはこの美術館の床は広い範囲にガラスで作られていて、下の階の人々が見える。1階では地下の遺構が見えるようになっているのだが、そのことはつまり、下から見上げれば、上の階の観客を真下から見上げることになる。日本ならプランの段階で潰された筈だ。


ゼウス・オリンピア神殿からアクロポリスの丘を望む ハッピートレイン
この後モナスティラキに行き、ハッピートレインに乗る。6ユーロで、45分くらいアクロポリスの麓を回る。何台も連結した車両が、曲がりくねったプラカ地区のような狭い道路を、まったくぶつからずに縫うように走るのはまったく不思議である。流石科学発祥の地のアテネか? 昨日行ったレストランの前を二度も通り客引きのおじさんに挨拶した。シンタグマで終わりだったらしいが、また出発点のモナスティラキまで乗ってしまったのである。サンドイッチなどを買い、帰り着いたホテルの近くでアムステビールなど買って、ホテルの部屋で食べたサンドイッチは美味しかった。
さてギリシャでは地下鉄などに乗ると私は徹底して観察された。流石にちょっとうんざりするほどにまじまじとほとんどの人に見つめられた。ニューヨークでは私に注目する人など居ない。どうしてかと思うが、日本語で話しかけてくる人も多い。聞くところによると全ギリシャで邦人は700人くらいしかいないらしい。団体の人はバスで移動しているし、個人旅行は若者が多いから、彫りの深い顔立ちの彼らから見れば私は珍しいのかも知れない。いやその上に私は坊主で髭だしまともな日本人とは少し毛色が変わって見えるだろう。地下鉄に老人の乗客が目立つのもニューヨークと異なるところだが、人々は親切で友好的だったし、楽しく過ごせた。