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2012-02

バタンと閉めて一巻の終わり;ニューヨークの鍵の話

 ブザーが二度鳴って降りていった。ドアを開けたら、黒人でベライゾン(電話会社)の工事に来たという。しかし私はベライゾンと今は関係が無い。確かに番地もアパート番号も合っているが、作業員は帰っていった。さて、「アッ!」、と思った。中のドアが閉まってしまっていた。
 外と内にドアがあり鍵が掛かる。外は零下の寒さだ。ところが私は慌てて降りてきたので、汚れた作業ズボン、下着のシャツ一枚だ。何しろ室内は常夏の暖かさなのである。昔シェアしていた教授などはいつも上半身裸でいた。
 とっさに数年は会っていない友達の顔を思い浮かべたが、超薄着では、そこまで行けない。第一彼が家に居るとも限らない。「さあ、どうするか?」。慌てて1階、2階、4階のブザーを押したが、誰も居ない時間帯だ。真っ青になって、ドアを無駄だが引っ張ってみたら、中から大家のヘイウッドが階段を下りてくる音と共に応じる声が聞こえた。「助かった!」本当にラッキーだった。もし誰も居なかったらどうなっていただろう? 考えるだに恐ろしい。角のカフェに行って頼んで時間を潰させて貰うか? 
 数年前に閉め出されたことがあった。しかしその時は丁度夏で、ともかく玄関前の階段に座って待っていれば、誰かが帰ってくるはずだった。幸い間もなく上の階の家族が帰ってきて、入れて貰った。いつも気を付けているのだが、ついうっかりして閉めだされる場合が生じる。大家のヘイウッドなどはしょっちゅう私を呼び出してドアを開けさせる。だいぶ貸しがあるのである。
 幸いと言っていいかどうか、3階の自分のアパートのドアは、強く引っ張ると開く。大家が10年も前にスチールのドアに変えると約束しながら放置されてきたお陰で、この木造のボロドアは鍵を掛けても強引に引っ張れば開くことを、前に住んでいた友人に「便利だぞ」と教えられていて、5~6回はそれを実行して、閉め出されずに済んだ。何しろ止めている金具そのものがドタンと落ちるお粗末さだ。
ヴァンダービルト街
アパート近くのヴァンダービルト・アベニュー(ブルックリン)

 初めて私が旅でニューヨークに来たとき。ホテルの部屋から下着で閉め出されたことがあった。前屈みになってフロントへ鍵を借りに行った。格好悪いと思ったが客もフロントも全く気に掛けなかった。
 それにしても日本では起こらない出来事である。鍵を持ち忘れて出てしまうことはしょっちゅうだった。閉じれば自動的にドアが閉まるのは、アメリカではどこでもそうである。大家のように子供の時から慣れていてもひっきりなしに鍵を忘れて出てしまう。
 昔私は神楽坂のマンションで外出中に鍵を紛失して、夜中に帰り着いて気が付いて、風呂場の小さな窓を開けてそこから泥棒さながらに侵入したことがあった。コンクリートの建物とサッシ窓だから、良くもそんなことが出来たものだと今でも感心する。最近では、私はニューヨークに慣れているので、東京ではいつでも鍵を掛けたかどうか不安になって確かめに戻ったりする。
 ヨーロッパを旅行したが、あまり鍵で苦労した覚えがない。私のような外人だけではなく大家のように住人がしょっちゅう閉め出されて、ひどい目に合うというのに、ニューヨークの鍵の慣行が是正される兆しもない。合理的なこの国で、こういう不合理がいつまでも残っているのは、何か国民性と関係しているのかと腑に落ちない。
 いや、この都市は1世紀も前の古い建物が大部分を占めているからだろう。そうであれば簡単には変更出来ない。だから、この街が発する信号は、パリがそうであったように、「破壊せよ」という信号なのだと私は思う。そうしてその街は美術思想をも支配し、その美術思想は、鍵の習慣と同様、簡単には変わらない。彼らは街を壊さずに、美術を壊して鬱憤を晴らす。

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テーマ:ニューヨーク - ジャンル:海外情報

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