2013-02

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メトロポリタン美術館のアンディ・ウオーホル展とニューヨークの現代美術

 ブログについて、FC2のサイトで私のブログのランキングは「旅」について3、794件中75位ということが分かった。意外に高いのは嬉しいがこのところ旅の記事に対して誰も拍手しない。見ることは見るが面白く無い、と言うことか? いや多分情報を知ろうとするのが目的だから、その内容の判断も「拍手」というような基準は抜きになっているのではないだろうか? 検索でメチャ見られるのは今回のハリケーン・サンデー(この場合も拍手はゼロ)以外では「空母エンタープライズ」が一番見られる。レーダーで全滅させられるカミカゼの中で、一機だけ見事突入して戦果を上げた特攻隊員の話で、関心を持つ人が多い。ついで多いのが「ヒゼンダニ」「ネズミ」についてである。しかしいずれも拍手をするという構えの人々が見ないらしく拍手ゼロ。気が付くことは現代アートに関してはほとんど関心が薄い。驚くほど誰も検索もしないようだ。検索というのは何もブロガーの人気と関係無いからね。
 ところでその現代アートの話だが、 私の東京の女友達が「現代美術なんて博打張っているようなもんだ」と言った。昨日別の女友達(ニューヨークの某美術大学大学院を出た画家だが、)とジョーズ・シャンハイへカニみそを食べに行って大いに満足したのだが、その時に、「うまい絵は駄目だから上手い人はわざと下手に描いている」といった。これはハッキリ言ってセザンヌ以降、観念化した美術のコンプレックスで、絵を描くという人間の才能の優劣を認めない。私はこれなどはニーチェの言う「ルサンチマン」だろうと思うしそう書いたこともあるのだが、とにかく絵画が描くことではなく考えることに転換して以来の、ここ100年来の主知主義の領地支配と拡張を示しているのだ。別の女友達(グラフイックデザイナー)に誘われたのでメトロポリタン美術館に「ウオーホルについて」展(2012年12月31日まで)を見に行くのだが、この展覧会はそう言う状況に対するタイムリーな企画なのかどうか?
 ニューヨークにいるとウオーホルこそはセザンヌに次ぐ戦後の大将軍、この領地の今は亡き領主であると思わせられる。彼は描かなくてもアートが成り立つことを証明して見せ、それまでのアートをゴミ箱に入れた。本人はしかし最後まで「描くこと」を尊敬し関心も持ち続けたと思えるにも関わらず。この道を選ばせたのは西洋のエピステーメである。以降アーチストは雪崩を打ってウオーホルに学ぶ。ウオーホルの威名を高からしめたと見られる世界の60名のアーチストの作品を網羅して、今日の美術を検証しようと言うのだ。名前を見ると今や旬の若いアーチストが名を連ねるところも興味深い。名前の確認は美術館のサイトでどうぞ。
http://www.metmuseum.org/exhibitions/listings/2012/regarding-warhol

メトロポリタンのウオーホル展

 このコンセプチュアリズムの覇権について批判的な批評家はニューヨークでも多い。いや日本と違ってもっと正面切って批判の論陣を張る。日本は「事なかれ」の国だから、今を盛りの潮流を批判してのけ者にされては困る、或いは敵を作りたくないからか、一切口をつぐむ。長いものに巻かれるのが伝統の国だ。
 もっともそれに反対する根拠も頭の中に浮かばないのに違いない。いや私にしてからが、果たしてこれが文明の必然であるかどうか突き詰めて思考していない。60年代にポップアートがアメリカで現れたときに、「天才の時代は終わった。」と謳い上げた日本の批評家が居た。これまでのアートへの弔鐘だと。それを読んだとき「それほどのことが起こり得るだろうか?」と言う疑念を持ったものだ。しかしその後の半世紀を見れば、あたかもその洞察は正しかったと思わせる道程を辿っている。もはや揺るがしがたい歴史になったかのようだ。
 けれど集団としての人間が常に正しい選択をしただろうか? 歴史を見ればむしろ逆の例を多く発見するだろう。集団は狂う。そうして衰退への道を歩む。
 確かにこの50年に写真は驚異的に進歩した。その上にコンピューターが現れてインターネットが強い影響力を持つようになり、それはますます進行中である。基本的にビジュアルを囲む状況が変わってしまった。一寸こういう分析をするのが苦手なので、このあたりで止めるが、写真を中心にする記号学的状況は最初はグラフイックデザインに芽生え、ポップアートがアートに移行させた。ウーホルがグラフイックデザイナーであったように、現実の社会の活動に直結するデザインが新しいツールとメディアをまず最初に取り込んだからだ。
 そうして基本的にグラフイックデザインはコミュニケーションのアートである。情報を伝えることを本分とする。私の経験では、商品を宣伝する広告に、絵として内容のあるイメージを採用すれば、その絵に関心が行ってしまい、商品の宣伝には適さない。ポップアートもコンセプチュアル・アートもコンセプトの伝達を主内容とする。ビジュアルがその伝達を妨げるものであることを嫌う。なるべく無色透明な絵が良いのだ。
 デミアン・ハーストは、「絵の上手い人はアシスタントに採用しない」と言ったと言う。これはつまり彼のアートの性質を明らかにしている。
 「みんな内心では一寸どこか変かなと思っても、そのように合わせないと、自分が消えてしまうからですよ。消えてしまってはどうしようも無いじゃないですか?」と先の女性画家が言った。この言葉は見渡す限り、ウオーホルの信奉者の作品が溢れかえる状況の内実をチョッピリ示しているだろう。
 さて様子見で言うわけではないが、私は今全盛のコンセプチュアリズムやミニマリズムを否定しているわけではない。私自身がそう言う仕事にも関心を持ってきた。もうここまで増え、あらゆる人工物を作りすぎた人類に新たな創造物は不要だと考えて、何も創造しない、ただ展開するだけの写真に基づく作品を制作したこともある。
 ただ、そのコンセプチュアリズムの覇権によって、この伝達には邪魔になる絵画を排斥して顧みない文化に疑念を持つのだ。まず何よりも人間の才能を尊敬しないその振る舞いに首を傾げたくなる。どのように文明が進歩しようと、身体を持った個としての人間が変わる事はない。そうして唯一大切なのはそのつかの間の生存者である人間なのだと思う。優れた才能を尊敬する心が一番大事なのだと思う。
 もっとも思想を語る手を拒否しても、彼らが写真ではなく人間の手を使おうとするのは、人間の手が持つ基本的な力が写真では代用できないことを知っているからだろう。
 70代、80代と言う高齢の画家が良い仕事を残してきた。それは絵画が若い頭脳の働きを必要としない、むしろ長い経験を必要とする身体に依拠する分野だったからだ。けれど今では長い経験が逆に評価されない主知主義的な表現のみが評価されるようになってしまった。身体がする事は機械に取って代わられる。その結果私たちを待ち受けるのは、温暖化によって進行する環境破壊に見合う、精神世界の荒廃であるだろう。
 一寸長くなり過ぎたし最近は根気がないので、このあたりではしょりすぎだが中止。いや、また人気のない現代美術のことを書いてしまった。

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テーマ:絵画 - ジャンル:学問・文化・芸術

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