意味する美術 日影眩作品
この文は,2011年に,故美術評論家中村伝三郎氏の子息でありコレクターでもある中村徹氏が,私の作品について書いてくださったエッセイである.
アメリカで絵画が死んだと言われて久しいが,今日その死んだ絵画は遂に灰になって跡形も無く吹き飛ばされてしまったかのように思える。私が当時考えていたことは,ある時代の都市や人を,その精神や気風,空気まで含めて捕らえることは,写真では不可能だろうという推察だった。そこにはどうしても視覚だけではなく,聴覚や嗅覚、触覚など五感を持つ人間の感受性と、表現する才能が必要とされるだろうと。あるエスパー(天才)によって、時代とその精神は一枚の絵にシンボライズされ得るだろうという希望を抱いていた。私にそれが可能であるかどうか? それこそ画家になった者の唯一の道であり挑戦でもある。事実を伝えることに心を奪われれば,それは写真を越えられない筈だ。単にリアルであることは命取りだろう。例えば私たちは時代と精神を見事に伝えたアクロポリスの神殿を思い起こせばいい。あるいは江戸の浮世絵を。北斎の「神奈川沖浪裏」は、現実の富士山が,今日世界文化遺産と認定される根拠となった。中村氏はこの問題について慎重に考察されている。日影眩
意味する美術 日影眩作品
2007年、<晴れた日には明日が見える>と題した日影眩の新作展を東京・東邦画廊で観た。2001年9月11日以来のテロにおびえるニューヨークの表情を描いた「神はアメリカを祝福する」作品など、極度のローアングルで描かれた、アメリカのいまを伝える作品であった。
2009年9月、<ザ・ニューヨーク・ストリート>と題する新作展を同じ東邦画廊で観る。「ガイアの夏」など、2007年展同様、ニューヨークの現在を伝える作品が並ぶ。その中に、「万年筆」(油彩 2008年制作、81.2×61.0cm)と題する作品に眼が入る。妙にこの「万年筆」が私の意識に働きかけてくる。
ローアングルで描く、スクールガールとサラリーマン。万年筆と時計。中央のスクールガールの一見エロっぽい太ももを斜めに大描きしながら、スクールガールの左手に万年筆、そして二人のサラリーマンを画面に配し、右上には、時計が描かれている。建物内と思われる。場所はニューヨークではなく、東京である。東京はニューヨーク同様、猥雑でありながら、しかし人を惹きつけて止まない魔力を持つ大都市であり、欲望渦巻く大都市でもある。
絵画は普通、眼の高さを基準にして描かれ、必要に応じて高めにあるいは低めに描かれるが、日影作品は、地面に近いアングルから描写される。正当な美術教育を受け、美術雑誌にアメリカの紹介記事を毎号寄稿してきた日影である。
作者はどうしてこんな描き方をしたのだろうか?
何を表わそうとしているのだろうか?
「万年筆」の画面は、アメリカに暮らす日影の眼に写った、2008年の現代日本の大都市・東京の断面であり、2008年東京は、スクールガールとサラリーマンにシンボライズされているのだ。スクールガールは未来と欲望を表わし、サラリーマンは効率を、万年筆は知識であり、場合によっては知性を表現しているのか?時計を配することで、時計は「メメント・モリ」(ラテン語で「自分が必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句)の哲学のなか、現世での時間がどんどん少なくなっていくことを示すものと考えられており、「死」をも予感させている。
日影眩 万年筆 キャンバスに油彩 81x61㎝ 2008
じっとこの絵を観ていると、私の頭の片隅に、遠い昔読んだ作者、レヴィ・ストロースの名が浮かびあがる。日影作品は、レヴィ・ストロースのいう、記号の体系としての「意味する美術」「意味を伝える美術」「意味することを目指した美術」ではないのか。知覚より概念を重視し、意味を伝えようとしているのではないのか?
人類学者にとって未開社会で作られる美術品~例えばブリティシュコロンビア先住民の仮面や衣装であれ、ブラジル熱帯雨林に住む民族の神話であれ~は、貴重な記録文書としての価値を持つ、という。それは、その社会の持つ信念や、社会組織について、重要な情報を与えてくれるからだ。日影作品は現代社会を映す意味する美術ではないのか?ただし、レヴィ・ストロースは、「意味を伝える美術」は集団の受け継ぐ遺産~文化~のなかから自然発生するもので、個人が効果をねらってこの様式を模倣しても、外部からそれを押しつけるのは不可能である、ともいう。
日影は、日影の特徴であるローアングルで、アメリカや、いまの日本社会・東京を表現する。作品は一見、実のようでいて虚であり、虚のようでいて実があるが・・・。
意味から自由といわれるマーク・ロスコのシーグラム壁画に魅かれる私だが、その対極にある、意味を伝える日影の作品は、同時代・今を伝える作品である。
現在、日影眩は、ブロードウエイを行く若いカップルを描いた作品「愛」で、時に消去されていく存在を描き始めている。時間の流れを、消え行く身体にゆだね。消滅を表わす、いわば新・メメント・モリだ。
日影作品が、本当に社会から生まれる「意味する美術」となるか今後作品を観続けるが、願いも込めて、新たな時代の先端を目指す「意味する美術」となっていくだろう。
1936年生まれの日影の筆先はますます元気。「意味する美術」は意気軒昂である。
今年開かれるという、池田20世紀美術館における日影眩の個展を期待する。
(中村 徹 2011年1月10日記 2013年12月15日再校)
アメリカで絵画が死んだと言われて久しいが,今日その死んだ絵画は遂に灰になって跡形も無く吹き飛ばされてしまったかのように思える。私が当時考えていたことは,ある時代の都市や人を,その精神や気風,空気まで含めて捕らえることは,写真では不可能だろうという推察だった。そこにはどうしても視覚だけではなく,聴覚や嗅覚、触覚など五感を持つ人間の感受性と、表現する才能が必要とされるだろうと。あるエスパー(天才)によって、時代とその精神は一枚の絵にシンボライズされ得るだろうという希望を抱いていた。私にそれが可能であるかどうか? それこそ画家になった者の唯一の道であり挑戦でもある。事実を伝えることに心を奪われれば,それは写真を越えられない筈だ。単にリアルであることは命取りだろう。例えば私たちは時代と精神を見事に伝えたアクロポリスの神殿を思い起こせばいい。あるいは江戸の浮世絵を。北斎の「神奈川沖浪裏」は、現実の富士山が,今日世界文化遺産と認定される根拠となった。中村氏はこの問題について慎重に考察されている。日影眩
意味する美術 日影眩作品
2007年、<晴れた日には明日が見える>と題した日影眩の新作展を東京・東邦画廊で観た。2001年9月11日以来のテロにおびえるニューヨークの表情を描いた「神はアメリカを祝福する」作品など、極度のローアングルで描かれた、アメリカのいまを伝える作品であった。
2009年9月、<ザ・ニューヨーク・ストリート>と題する新作展を同じ東邦画廊で観る。「ガイアの夏」など、2007年展同様、ニューヨークの現在を伝える作品が並ぶ。その中に、「万年筆」(油彩 2008年制作、81.2×61.0cm)と題する作品に眼が入る。妙にこの「万年筆」が私の意識に働きかけてくる。
ローアングルで描く、スクールガールとサラリーマン。万年筆と時計。中央のスクールガールの一見エロっぽい太ももを斜めに大描きしながら、スクールガールの左手に万年筆、そして二人のサラリーマンを画面に配し、右上には、時計が描かれている。建物内と思われる。場所はニューヨークではなく、東京である。東京はニューヨーク同様、猥雑でありながら、しかし人を惹きつけて止まない魔力を持つ大都市であり、欲望渦巻く大都市でもある。
絵画は普通、眼の高さを基準にして描かれ、必要に応じて高めにあるいは低めに描かれるが、日影作品は、地面に近いアングルから描写される。正当な美術教育を受け、美術雑誌にアメリカの紹介記事を毎号寄稿してきた日影である。
作者はどうしてこんな描き方をしたのだろうか?
何を表わそうとしているのだろうか?
「万年筆」の画面は、アメリカに暮らす日影の眼に写った、2008年の現代日本の大都市・東京の断面であり、2008年東京は、スクールガールとサラリーマンにシンボライズされているのだ。スクールガールは未来と欲望を表わし、サラリーマンは効率を、万年筆は知識であり、場合によっては知性を表現しているのか?時計を配することで、時計は「メメント・モリ」(ラテン語で「自分が必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句)の哲学のなか、現世での時間がどんどん少なくなっていくことを示すものと考えられており、「死」をも予感させている。

じっとこの絵を観ていると、私の頭の片隅に、遠い昔読んだ作者、レヴィ・ストロースの名が浮かびあがる。日影作品は、レヴィ・ストロースのいう、記号の体系としての「意味する美術」「意味を伝える美術」「意味することを目指した美術」ではないのか。知覚より概念を重視し、意味を伝えようとしているのではないのか?
人類学者にとって未開社会で作られる美術品~例えばブリティシュコロンビア先住民の仮面や衣装であれ、ブラジル熱帯雨林に住む民族の神話であれ~は、貴重な記録文書としての価値を持つ、という。それは、その社会の持つ信念や、社会組織について、重要な情報を与えてくれるからだ。日影作品は現代社会を映す意味する美術ではないのか?ただし、レヴィ・ストロースは、「意味を伝える美術」は集団の受け継ぐ遺産~文化~のなかから自然発生するもので、個人が効果をねらってこの様式を模倣しても、外部からそれを押しつけるのは不可能である、ともいう。
日影は、日影の特徴であるローアングルで、アメリカや、いまの日本社会・東京を表現する。作品は一見、実のようでいて虚であり、虚のようでいて実があるが・・・。
意味から自由といわれるマーク・ロスコのシーグラム壁画に魅かれる私だが、その対極にある、意味を伝える日影の作品は、同時代・今を伝える作品である。
現在、日影眩は、ブロードウエイを行く若いカップルを描いた作品「愛」で、時に消去されていく存在を描き始めている。時間の流れを、消え行く身体にゆだね。消滅を表わす、いわば新・メメント・モリだ。
日影作品が、本当に社会から生まれる「意味する美術」となるか今後作品を観続けるが、願いも込めて、新たな時代の先端を目指す「意味する美術」となっていくだろう。
1936年生まれの日影の筆先はますます元気。「意味する美術」は意気軒昂である。
今年開かれるという、池田20世紀美術館における日影眩の個展を期待する。
(中村 徹 2011年1月10日記 2013年12月15日再校)
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