2017-10

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神戸時代の親友、S君の思い出

 お盆だから今は亡き神戸時代の親友の話。S君は神戸市民デザイン教室で早川良雄氏に学んだグラフィックデザイナーで、早川氏の紹介で大阪のスモカ歯磨きの宣伝部に勤めていたが、それ以前はフリーでいつも私と連んで神戸新開地で時間を過ごしていた。
 ある時新開地で神戸宣伝美術家協会会長で神戸新聞社嘱託、日宣美会員の橘文策氏に会って「お、新開地のダニが歩いているな」と言われてコーヒーをご馳走になったことがあった。新開地と国鉄の高架が交わる辺りに神戸新聞社があり、私の仕事場の太陽製版はその高架の下にあったが、そばに私が4ヶ月見習いをしたことのある絵看板屋美功社もあって、そこの字書きのSさんが「君と居たあの人な、満州国展の審査委員長だった」とニコリともしないで言ったことがある。
 橘さんは当時50代だったと思うが、昔、大阪にあった有名な「苦楽」という雑誌の題字のレタリングをした人だった。彼は私と同じ明石で山陽電車の駅一つ違いの住宅地に住んでいたので、よく国鉄明石駅で出会ったりした。
 「マーちゃん、いつも一緒にいるあの人は何者や?」と、私が14歳の頃紙芝居の仕事を紹介してくれた脚本家のYさんに聞かれたことがある。橘さんは小柄だが白髪、黒縁メガネでステッキをついて風格のある老紳士だった。若いデザイナーグループ「ノン」が神戸新聞社主催の歳末義金募集「ナベの会」に出演したのも、出勤途上の車中で私が橘さんに頼まれたからだった。
 話をS君に戻すと、大阪のスモカ歯磨きの勤めが終わると神戸駅から一直線に私の仕事場に来て、私と新開地を歩き食事をして喫茶店で駄弁るのが日課だった。
 休みの日はS君の友だちの美しい双子の姉妹とダブルデートをしたものだった。姉のTちゃんにS君は恋していて、今もある三宮の「ジャワ」という喫茶店で、Tちゃんが私の吸っていたタバコを取って一口吸った時は、彼は目に見えて悄げた。
 また4人で三宮の映画館に「略奪された7人の花嫁」を見に行ったこともある。満員の映画館でS君が空く席を素早く見つけたので座って鑑賞できた。そのあと入った喫茶店で、私がご婦人と口にしたら「ご婦人なんて初めて言われた」とTちゃんが感慨深げにいったが、彼女は20歳だった。

庄田進君(右)と私 1956年 鳴尾にて
S君(右)と私 1956年5月 鳴尾にて

 当時神戸におおきなエレガントな喫茶店ができて、恋人たちが集まっていたのだが、そこで私はずっと好きだった年上のEさんに「結婚が決まっているけどそれまでで良かったら」と言われて胸もときめくキスをして恋人になったのだが、次にその喫茶店に行った時、S君と姉妹に出くわしたら妹のTeちゃんがやってきて「日影さん、私、空き家よ‼︎」と怒ったように言い捨てて去ったので、Eさんが「凄い‼︎ こんなこと初めて」といって驚いてしまったことがあった。Eさんはタイトスカートだったが、Teちゃんはヤングらしく当時流行りの落下傘スカートだった。
 彼はハイネの詩とタンゴを愛するロマンチストだったが、一方で雑誌に出た女性のヌードや水着写真をスクラップブックに貼って楽しんでいて、目を開かれた私は以降その影響を受けてスクラップブックを何冊も作ることになった。その70年代、80年代の女性の裸を集めたスクラップブックは今も断捨離を逃れて私の手許にある。
 最初彼の家での双子の姉妹とのクリスマスパーティーに呼ばれた時、「雪の降る街を」のレコードを聴きながら、皆が話題にして共感する様子だったので、さすが神戸っ子は都会人だなーと思って、明石の田舎からのぽっと出みたいなまだ子供だった私はコンプレックスを感じたものだった。彼は確か旧制の神戸一中卒業ではなかったかと思うが、山本五十六搭乗機攻撃を指令する英語の通信文を全文暗記していて私に聞かせてくれた。彼は素直に愛国者でもあった。
 三宮駅高架下で信号が変わるのを待っていた時、通り過ぎる外車の中で二人の白人女性が身をかがめるようにして彼を注視したのを目撃したことがある。彼を「面倒を見てやってくれ」といって紹介してくれたのは、実は私が年下なのに、橘さんだが、初めて会ったのは神宣美の展覧会場で、A女史と仲良く受付をしていた彼を見て、背が高くて俳優みたいな二枚目だなーと憧憬を感じたものだ。森雅之という俳優がいるが似ていてもはるかに彼の方がいい男だと思っていた。今でもあれくらい爽やかで日本人離れのした二枚目に会ったことはないと思う。いかにも神戸でなければあんな男はいなかった。
 私が神楽坂赤城下町にいた頃、1969年10月に彼が訪ねてきてくれたことがある、今のカミさんと出会ったばかりの頃で、カミさんが用意して歓待し一泊した。昔の友だちに会いたがったが急のことで誰にも会わせられなかった。
 半年後の1970年4月、万博に向けて地下鉄工事が続く大阪天六でガスの大爆発事故が起きた。1度目の爆発で集まった大勢の人たちのうち79名が2度目の大爆発で亡くなった。新聞の死亡者欄の中にS君の名前があった。昔から彼は場所取りがうまかったからな、と思った。のちに彼のカローラが近くで発見された。
 私は新幹線で彼の葬儀に駆けつけたが、奥さんが私の顔を見るなり「もっと早よ来たって‼︎」と叫んだ。帰りの新幹線が名古屋止まりだったので、オールナイトの映画館でエロ映画を見て夜を明かしたが、そんな映画をもう見られないS君が可哀想でならなかった。あれから46年も過ぎてしまった。その頃小学生の娘さんがいたのだが、それ以来私は仕事にかまけて彼の家族にも 会わないままになった。
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