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2024-03

メトロポリタン美術館のアンディ・ウオーホル展とニューヨークの現代美術

 ブログについて、FC2のサイトで私のブログのランキングは「旅」について3、794件中75位ということが分かった。意外に高いのは嬉しいがこのところ旅の記事に対して誰も拍手しない。見ることは見るが面白く無い、と言うことか? いや多分情報を知ろうとするのが目的だから、その内容の判断も「拍手」というような基準は抜きになっているのではないだろうか? 検索でメチャ見られるのは今回のハリケーン・サンデー(この場合も拍手はゼロ)以外では「空母エンタープライズ」が一番見られる。レーダーで全滅させられるカミカゼの中で、一機だけ見事突入して戦果を上げた特攻隊員の話で、関心を持つ人が多い。ついで多いのが「ヒゼンダニ」「ネズミ」についてである。しかしいずれも拍手をするという構えの人々が見ないらしく拍手ゼロ。気が付くことは現代アートに関してはほとんど関心が薄い。驚くほど誰も検索もしないようだ。検索というのは何もブロガーの人気と関係無いからね。
 ところでその現代アートの話だが、 私の東京の女友達が「現代美術なんて博打張っているようなもんだ」と言った。昨日別の女友達(ニューヨークの某美術大学大学院を出た画家だが、)とジョーズ・シャンハイへカニみそを食べに行って大いに満足したのだが、その時に、「うまい絵は駄目だから上手い人はわざと下手に描いている」といった。これはハッキリ言ってセザンヌ以降、観念化した美術のコンプレックスで、絵を描くという人間の才能の優劣を認めない。私はこれなどはニーチェの言う「ルサンチマン」だろうと思うしそう書いたこともあるのだが、とにかく絵画が描くことではなく考えることに転換して以来の、ここ100年来の主知主義の領地支配と拡張を示しているのだ。別の女友達(グラフイックデザイナー)に誘われたのでメトロポリタン美術館に「ウオーホルについて」展(2012年12月31日まで)を見に行くのだが、この展覧会はそう言う状況に対するタイムリーな企画なのかどうか?
 ニューヨークにいるとウオーホルこそはセザンヌに次ぐ戦後の大将軍、この領地の今は亡き領主であると思わせられる。彼は描かなくてもアートが成り立つことを証明して見せ、それまでのアートをゴミ箱に入れた。本人はしかし最後まで「描くこと」を尊敬し関心も持ち続けたと思えるにも関わらず。この道を選ばせたのは西洋のエピステーメである。以降アーチストは雪崩を打ってウオーホルに学ぶ。ウオーホルの威名を高からしめたと見られる世界の60名のアーチストの作品を網羅して、今日の美術を検証しようと言うのだ。名前を見ると今や旬の若いアーチストが名を連ねるところも興味深い。名前の確認は美術館のサイトでどうぞ。
http://www.metmuseum.org/exhibitions/listings/2012/regarding-warhol

メトロポリタンのウオーホル展

 このコンセプチュアリズムの覇権について批判的な批評家はニューヨークでも多い。いや日本と違ってもっと正面切って批判の論陣を張る。日本は「事なかれ」の国だから、今を盛りの潮流を批判してのけ者にされては困る、或いは敵を作りたくないからか、一切口をつぐむ。長いものに巻かれるのが伝統の国だ。
 もっともそれに反対する根拠も頭の中に浮かばないのに違いない。いや私にしてからが、果たしてこれが文明の必然であるかどうか突き詰めて思考していない。60年代にポップアートがアメリカで現れたときに、「天才の時代は終わった。」と謳い上げた日本の批評家が居た。これまでのアートへの弔鐘だと。それを読んだとき「それほどのことが起こり得るだろうか?」と言う疑念を持ったものだ。しかしその後の半世紀を見れば、あたかもその洞察は正しかったと思わせる道程を辿っている。もはや揺るがしがたい歴史になったかのようだ。
 けれど集団としての人間が常に正しい選択をしただろうか? 歴史を見ればむしろ逆の例を多く発見するだろう。集団は狂う。そうして衰退への道を歩む。
 確かにこの50年に写真は驚異的に進歩した。その上にコンピューターが現れてインターネットが強い影響力を持つようになり、それはますます進行中である。基本的にビジュアルを囲む状況が変わってしまった。一寸こういう分析をするのが苦手なので、このあたりで止めるが、写真を中心にする記号学的状況は最初はグラフイックデザインに芽生え、ポップアートがアートに移行させた。ウーホルがグラフイックデザイナーであったように、現実の社会の活動に直結するデザインが新しいツールとメディアをまず最初に取り込んだからだ。
 そうして基本的にグラフイックデザインはコミュニケーションのアートである。情報を伝えることを本分とする。私の経験では、商品を宣伝する広告に、絵として内容のあるイメージを採用すれば、その絵に関心が行ってしまい、商品の宣伝には適さない。ポップアートもコンセプチュアル・アートもコンセプトの伝達を主内容とする。ビジュアルがその伝達を妨げるものであることを嫌う。なるべく無色透明な絵が良いのだ。
 デミアン・ハーストは、「絵の上手い人はアシスタントに採用しない」と言ったと言う。これはつまり彼のアートの性質を明らかにしている。
 「みんな内心では一寸どこか変かなと思っても、そのように合わせないと、自分が消えてしまうからですよ。消えてしまってはどうしようも無いじゃないですか?」と先の女性画家が言った。この言葉は見渡す限り、ウオーホルの信奉者の作品が溢れかえる状況の内実をチョッピリ示しているだろう。
 さて様子見で言うわけではないが、私は今全盛のコンセプチュアリズムやミニマリズムを否定しているわけではない。私自身がそう言う仕事にも関心を持ってきた。もうここまで増え、あらゆる人工物を作りすぎた人類に新たな創造物は不要だと考えて、何も創造しない、ただ展開するだけの写真に基づく作品を制作したこともある。
 ただ、そのコンセプチュアリズムの覇権によって、この伝達には邪魔になる絵画を排斥して顧みない文化に疑念を持つのだ。まず何よりも人間の才能を尊敬しないその振る舞いに首を傾げたくなる。どのように文明が進歩しようと、身体を持った個としての人間が変わる事はない。そうして唯一大切なのはそのつかの間の生存者である人間なのだと思う。優れた才能を尊敬する心が一番大事なのだと思う。
 もっとも思想を語る手を拒否しても、彼らが写真ではなく人間の手を使おうとするのは、人間の手が持つ基本的な力が写真では代用できないことを知っているからだろう。
 70代、80代と言う高齢の画家が良い仕事を残してきた。それは絵画が若い頭脳の働きを必要としない、むしろ長い経験を必要とする身体に依拠する分野だったからだ。けれど今では長い経験が逆に評価されない主知主義的な表現のみが評価されるようになってしまった。身体がする事は機械に取って代わられる。その結果私たちを待ち受けるのは、温暖化によって進行する環境破壊に見合う、精神世界の荒廃であるだろう。
 一寸長くなり過ぎたし最近は根気がないので、このあたりではしょりすぎだが中止。いや、また人気のない現代美術のことを書いてしまった。

テーマ:絵画 - ジャンル:学問・文化・芸術

ニューヨークの「知られざるハレム」

 佐々木健二郎さんが小説を出版した。その出版記念パーティがソーホーであり、久しぶりに大勢の人に会った。タイトルは「知られざるハレム」つまり各民族の女性ヌードを密かに描いていた画家の話で、作者がモデルという。
 話は全体としてニューヨークアートシーンから疎外された画家の苦渋の状況が描写される。アンチ・アカデミズムで始まった現代美術は100年を過ぎ、アカデミズムの見直しが行われても、なお写真を越えられないものとして、写実的絵画表現を疎外し続ける。あらゆる表現が受け入れられる状況にあっても、旧来のメディアムによる絵画は「死んだ」とされる状況から抜けられない。
 例えばシェークスピアの肖像をホルバインが描き、一方発明期のカメラが彼を撮ったとして、「私なら写真を取る」とスーダン・ソンタグが言ったという。けれど同時代の無名の農夫の肖像をホルバインが描き、原型カメラが彼を撮ったとすれば、「私はホルバインを取る」と佐々木さんは書く。これは問題の本質に触れた部分だ。
 私はしかし、ソンタグの見解に賛成しない。なぜなら人はただ目で対象を見ているのではなく、音や匂いのみならず、それこそ肌で、空気という見えないものまで見ているからである。もちろん画家の才能によってその表現は、写真が捕らえたように一律ではない。けれど才能は人間の文化にとってもっとも大切なものだ。それこそソンタグが引用したBardolator (熱狂的シェークスピア崇拝者)という言葉のうちにそのことは強烈に示されているだろう。
 ともあれ、非常に多くの問題を含んだ示唆に富んだ内容だ。絵もシンプルで確かにリアリズムにおけるミニマル表現になっている。共鳴する人がロマン(小説)でしか現れないのでは無いことを願う。

知られざるハレム



 

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ハリケーン「サンディ」、ブルックリンの一週間

 今日3日土曜日、快晴気温は8℃、プロスペクトパークのグリーンマーケットに行った。先週の土曜日、マーケットから帰った後、パニック状態の友達からの電話でハリケーンを知って情報を調べたのだった。
 経過を言うと、翌日曜の午後7時に全地下鉄が止まり、午後9時にバスが止まった。低地ゾーンA全域に強制避難命令が出たが、その時間までに避難しなければ、車がない限り、どこにも移動出来ないことになった。私は近くのスーパーに醤油を買いにいった。いつもよりは慌ただしい様子の買い物客がレジに並び、パンの棚は空になっていた。で、風が強くもならず、一向に雨も降らないのでもっぱらインターネットで情報を調べていた。翌月曜朝の8時頃上陸という情報なので、ニューヨーク・ポスト紙が、翌日出した見出し「ウエイティング・ハリケーン」という状態だった。
 ところが月曜朝になっても裏庭の木々がざわざわと揺れているものの一向に風雨も強まらない。この日、私は1日仕事をして、作品を一点完成させた。そうしていくつかのテレビ・チャンネルが一日中流しているライブ画面を見ていた。ロングアイランドの海岸にいるアナウンサーは打ち寄せる波の映像をバックにさほど立っているのが辛そうにも見えず、その上大人や子どもがテレビの画面に出て来て手を振っていた。ニュースでは深夜にピークになるという。やがて高潮時が心配と言うことになり、電力会社がローワーマンハッタンと一部ブルックリンの電力供給をストップして、真っ暗なビル街の映像が出るようになった。
 その頃にはやっと風雨は強まり、時折凄い音を立てて道路を突風が走った。台風と違ってハリケーンは瞬間的な突風が吹く。けれど風向きから窓には風が吹き付けない。道路を時折走り抜ける。そうして時折、チカチカと電灯が点滅したので、実際に恐れた。もし停電になったら今夜は寝ればよいが、そうなると当分復旧しないだろう。ブルックリンの電線などは戦前のものがそのまま現役なのである。
 ただ私のところはプロスペクトプレースと言われるようにまさに「見晴らし台」だから浸水の心配だけはない。電話を後でするといった友達からは電話が掛からず、翌日の火曜になってもとうとう電話がなかった。それでメールを出した。別の友達から木が一杯倒れているが停電も無く無事だという電話があった。他に東京の友達からの見舞いのEメールなどがあった。

折れた枝 倒れなかった老木
折れた枝 プロスペクトプレース         倒れなかった老木 グランドアーミープラザ

 水曜夜になって返信メールが届いた。電話が出来なかった、やっとメールが出来た、車は半分水に浸かっているし、爆発音が聞こえて人がアパートから飛び出して来るし叫び声は聞こえるし、取りいそぎ、とあった。
 木曜になって私から掛けたが、途中で切れて、その後掛けても、掛け直せとアナウンスが聞こえるだけだった。金曜になってようやくいくらか話せたがレセプションが悪く、途切れてよく聞こえなかった。ただ今回もう疲れたので日本に帰りたくなった、と言ったのは聞き取れた。ATT&Tから「復旧に最大限の努力をしている」と、テキストメッセージが来たそうである。無事は分かったし途切れ途切れの会話では苛立つし、その後電話はせずメールをした。
 地下鉄は一週間後の今日、土曜日、私のアパートから近い三つの駅グランドアーミープラザの2、3、セブンスアベニューのB、Q、クリントン・ワシントンのE、全ラインがストップしたままである。F、Dなど一部のラインはブルックリンでも動いているが、マンハッタンへはシャトルバス利用になり、長蛇の列が出来ているようだ。何よりも今回は海岸に近く浸水した地域の被害が大きく、停電が追い打ちを掛け、有線の電話会社ベライゾンは大きな損害を出して業績が悪化したくらいで、電話の不通がかなりの範囲で起こった。又月曜の当日犬の散歩に出たカップルが倒れた樹の下敷きになって死ぬなどの話も伝えられて、このような自然的被害を受けたことの無いニューヨーカーに深い精神的傷害を残したようである。
 しかしこのハリケーンの進路変更は地球温暖化の影響とも考えられ、これから毎年襲われるとすれば、古い都市ニューヨークは首都機能を寸断され、その働きを失うことになるかも知れない。毎週末、修理のためにニューヨーク地下鉄の路線変更、運行停止は常態だったが、もうそんな間に合わせ修理では追いつかない。人と同様に都市も老化し、やがて死滅の時を迎えるだろう。今回のハリケーンは実害以上に深い心的傷害をそこに住む人にもたらしたかも知れない。何も被害の無かったはずの私も又、私自身の問題、最悪の祖国の状態に重なってディプレッションが深まっている。
 さて一週間外に出ず、「好奇心のないやっちゃナー」とあきれられた私だが、今日初めて外に出て見た。直ぐ斜め前に街路樹が途中から折れて大きな枝が道に落ちていた。しかしアーミープラザの公園に行ったが、どこにも倒れた木は見当たらなかった。このあたりは進路から少し外れていたのか? 相当の今にも折れそうな老木がちゃんと立っていた。それにもう満員のグリーンマーケットで食品を買い占める人もいなかった。ハリケーン前に姿を現したネズミが、あらゆるトラップに掛からず今日また姿を現した。「サンディ」ベイビーをネズミに大量出産されそうで不安が強まっている。

テーマ:ニューヨーク - ジャンル:海外情報

ベルンのクレー美術館とアルプスの虹

夕虹
フィスト山麓でケーブルカーから見た虹

 スイスに行く気が無かった。あそこは芸術と関係無いと思った。無知を恥じます。けれど何しろ直ぐ横の国だし、スケジュールに入れて、ユングフロウヨッホにも登った。
 バーゼルはアート関係者には有名だ。7月も半ばでアートフェアは終わっていたが、ちょうど現代美術館で「ルノアール」展をやっていたので、パリ・リヨン駅発TGVの終着駅だし立ち寄った。お陰で今回はルノアールを飽きるほど見ることになった。コレクションも充実した良い美術館でした。美術館のカフェで昼食のあと市役所のあたりも見て、大急ぎで駅に戻ったが乗り遅れ途中乗り換えで、予定より遅くベルンへ到着。
 乗り換えがどこでも一苦労、何しろフランスもスイスも美術館でもそうだが、自国語を誇るのか英語の説明が一切ない。こっちはフランス語がちんぷんかんぷんなので。けれど20数年前に比べるとどこでもずいぶん英語が通じるようになっていて色んな場面で助かった。

Basel美術館 乗換駅オルテン
 駅から徒歩の距離にあるバーゼル現代美術館 バーゼルからベルンへの乗換駅オルテン

 ベルンは駅前のホテルで何かと便利だった。調べたところではここは見るものがさほど無いと見当を付けていたが、それは間違いだった。時計を見て、噴水を見て何が面白い? おまけにベア公園はつまらないと言うし。ところがこの旧市街が素晴らしかった。初日に街を河まで歩きバラ公園のある高台まで登った。素晴らしい展望だった。ただ薔薇はもう盛りを過ぎていた。戻りながら左側の河よりの街も見たが素晴らしい。

ベルン ベルン2
 クレーが生まれて晩年を過ごしたベルンの旧市街

 パウル・クレー美術館は、目的にしていた。私は若い頃からクレーが好きで、当時私にとって大金の5000円を払っても発売を待って箱入りの画集を買って今も持っているが宝物のように大事にしたものだ。ところが彼がベルンで晩年を過ごし、そのベルンが生まれ故郷でナチに追われて戻ったことは初めて知った。
 翌日一番で駅前からバスに乗って出掛けた。美術館に行く乗客が私たちだけだったのは意外だったが、予想を上回る現代建築の大規模な美術館だった。入り口にいた係の女性が何度もやってきて、説明してくれた。一部の作品は京都から戻ったばかりといった。作品も予想以上に揃っていた。主としてベルンで制作した作品が中心だ。
 丁度ドイツの現代アーチスト、ジグマー・ポルケとの2人展が、広い会場の中央を使って開かれていた。ポルケは10年ほど前にニューヨーク近代美術館で個展が開かれて、私も一文を日本の雑誌に書いたが、確かに現代の巨匠と言っていいだろう。1941年生まれだが、すでに亡い。私たちが帰る頃には来場者がどんどん増えてきた。凄いね、クレーは私が若者の頃にすでに大巨匠だった。
 戻った後、ベルン現代美術館に向かった。ここにもクレーの代表作が数点あった。大部分はクレー美術館に移ったと言うことだが、極めつけの作品「パルナッソス山へ」などがここにはあった。他の印象派やモダンアートの作品も流石に近隣の地だから充実していて、セザンヌやピカソについても認識を改めた。美術館のカフェで用意されていたディッシュを取ったが、見かけだけでなく美味しかった。ベルンはクレーの故郷に相応しいまるで彼の絵の様に詩的な街だった。もう一泊すべきだった。

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 パウル・クレー美術館とエントランスホール

ベルン現代美術館 美術館カフェ
  ベルン現代美術館 美術館カフェの軽食とアイスコーヒー

 大急ぎでホテルに戻って荷物を取って駅へ。ベルンからグリンデルワルトへ、ここでは日本人の観光客が非常に多かったし、日本人のための観光案内所まである。ホテル・ヒルシェンはバルコニーのある部屋を取った。まだ明るいので、かみさんが調べたケーブルカーに乗ってフィスト山に登ったが、あいにくの小雨だった。パリでは4日間一度も晴れなくて、時には小雨が降ったが、その悪天候がまだ続いていた。「明日は晴れると言われているんだけど」と案内所の女性が言っているのが聞こえた。
 フィスト山からの展望を楽しんで ケーブルカーで戻ってくると見事な虹が孤を描いていた。私がこれまでに一度も見たことがない完全な虹である。夕虹が出れば明日は晴れると言われていたのかどうか? 実際に翌日はクッキリと晴れて、私たちはユングフロウバーンに乗り、雪に覆われたヨーロッパで一番高いと言われる山頂に達して、ユングフロウヨッホの景観を楽しんだのだった。そのいきさつは写真でご覧下さい。

登山列車 ユングフロウ
 なぜか日本人で満員の登山列車 カラリと晴れたユングフロウヨッホ

アレッチ氷河 メンヒ
 アスレッチ氷河とメンヒ

ハイキング 草花
 アイガークレッチャーからクライネシャイデックまで1時間のハイキング アルプスの草花

テーマ:美術館・博物館 展示めぐり。 - ジャンル:学問・文化・芸術

夏のゴッホ(アルル)、セザンヌ(エクサンプロバンス)詣で

「明白な視野」と題する、具象ミニマリズムとも言える小さい絵画を集めた夏のグループ展で、ニューヨークのある画廊は、プレスリリースに「これらのアーチストは、同時代の具象画がアート制作の他の方法に固有の知性的特質を欠くという前提事項を無視します。」と書いた。具象画と言っても、これらの絵はもう可能な限り下手くそに省略した絵である。
 ドイツの大哲学者ヘーゲルは「絵は手が語る思想」であると言っている。貴方でさえこの生涯思考した西洋の偉賢に逆らうのは難しい。大脳だけが思想を語るのではない。
 一方フランス、ポストミニマリズムの巨峰、ピエール・クロソフスキーは(私は大好きです)、その小説の中で、画家の言葉を借りて「プロバンスに悪鬼の如き老人が現れて、世界を分裂させてしまった。」と書いた。知人のフランス人もその名を知らなかったが、彼は思いっきり下手な記憶に頼る画が芸術であり得ることを証明して見せた革命的画家だ。
 今年の夏、実はヨーロッパを旅行してきた。いやもう今更印象派なんて、と心底侮っているので、南仏は私に取って残されたヨーロッパだった。南仏ではコートダジュールの他にめぼしい場所もないので、アルルエクサンプロバンスにも行きました。意外だったのはアルルが恐ろしく古い建て込んだ中世の街だったこと。紀元初頭の巨大とも言えるローマの円形闘技場まで残っている。住民に排除要請をされたゴッホは今では恐るべき数の観光客を集めて、子孫住民に糧をもたらしている。けれどレストランが残っている以外、病院なども後世に作られた偽物であるし、見るべきものは無い。
 偽物と分かっても彼が描いた田園を彷彿させる風景に会えるかも知れないと、吊り橋を見に、暑い日差しの中ホテルで聞いた道順を川に沿って、セミの声も消す耳も聾する川向こうの自動車のエンジン音を聞きながら歩いたが、行けど行けど橋に至らず、かみさんは遅れるし、1時間ほども歩いて遂に諦めて引き返した。画材を背負った歩くゴッホのマークが矢印と共に誘導するのだよ。人も車もメッタに来ないのだから、治安の上からも不安がある。途中で「英語話せますか?」と行き違った白人の青年が聞いた。「ぼくは行ってみます」とバックパックを背負った青年は元気に遠ざかる。私が、バスに乗ってからその後徒歩20分という説明をうろ覚えしていたのと、この標識が原因だった。
 途中、道ばたの家に住む幼児を連れた黒い服の若いお母さんと行きも帰りも挨拶。「ボンジュール」と女児にうながした。印象に残ったアルルの美人。アア、こんなところに住む人生があるなあと思った。そういえばホテルを探していたとき、「お手伝いしましょうか?」と初老の男性が声を掛けてくれた。彼は直ぐにそのホテルが分かって教えてくれたが、「70年代に日本で暮らしたことがある」といった。この旅では何人もそう言う親切な人や日本にゆかりのある人に出会った。

アルルの街 吊り橋への道
強い日差しのなかのアルルの街 吊り橋への道-人影もない

 さてその後バスに乗って、そのバス停が一般の長距離バス乗り場とは少し違っていたので、慌てたが、ともかくエクスプロバンスへ。5時過ぎに到着、チェックインして直ぐに、セザンヌが子供の頃にドローイングを習ったグラネ美術館へ。
 ここに行きたかったので休みを避けるためにスケジュールを変更したのです。それだけの値打ちがありました。アングルもあったし、その友人だったグラネの作品も面白かった。アングルに比べて下手と思えるグラネの、一寸未完成に見える絵の中に、後のセザンヌの絵のイメージがうかがえた。多分これがアングルだったら、セザンヌの未来は違っていた? 
 ここではドイツのコレクターのコレクション展をやっていた。ドイツとアメリカの現代美術。巨大な作品ばかり。うーむこういう人が現代美術を支えているのかと言う感想。これはもしかすると現代美術作品の故郷帰りだね。現代美術の遙かな始祖が、学んだ美術館だ。

DSC_8545グラネ美術館72 セザンヌ
グラネ美術館の看板 街の高台にあるセザンヌのスタジオ

 この後、翌日ミニ・トレインで行くつもりのセザンヌのスタジオへ歩いて行った。歩いても大したことはないが、スタジオに行くはずのトレインが夕方6時からしか運行していなかった。夕方にはもう居ないし、それならサント・ヴィクトワール山が見える丘まで行けたのだが。
 ともあれ歩いて行ったが、いくらかの人たちがスタジオを見物していた。高い天井と大きな作品を出すための口が作られているのが印象的だ。それに庭が公園の様に広いのも印象的だった。スタジオにセザンヌとは似つかぬ絵が2点あり、節子と日本語でサインしてあった。丁度隣の建物でバルチュス夫人節子さんの個展中だったが、長い昼休み休館で、窓の外から見るしかなかった。セザンヌとは別の意味で下手な絵だ。バルチュスはクロソウスキーの実弟だ。
 もう時間が無くなったので、かみさんは布を買うのを楽しみにしているし、丘まで歩いて20分というので、迷ったが行くのは中止にした。街に戻り買い物をした後、大急ぎでTGVの駅に行くバスに乗って私たちはエクサンプロバンスを後にしたが、アルルと違って一寸後に心が残った。もう一泊すべきだった。

カフェ エクスの街
ランチを取ったエクスのカフェ-定食が美味しかった かみさんが布とおみやげの石鹸を買ったエクスの街

 軽く見ていたが、間違いだった。セザンヌの存在が、揺るがしがたい巨峰の様に聳え立っているのが見えた。オルセーでブグロー氏の「ヴィーナスの誕生」を見た。この絵は例えばゴヤや、レンプラントとは異なっている。スマートさがあるのだ。明らかに写真の影響によって、絵画はここでも変貌を遂げていると思えた。意識せずに影響を受けたと思えるグラネ氏と同様に、セザンヌは下手くそだった。しかしその下手くそが時代を変えた。写真の影響のもう一つのパートが、絵画に新しい視野を開いたのだ。
 パリのプチパレで開かれた展覧会で、歴史から消されていたアカデミズムの絵画の復権が行われた。だからこそ、今私たちは印象派美術館のオルセーでいくらかの彼らの作品を見ることができるのだろう。けれど今もそっくりに対象を表すことへの蔑視とコンプレックスは根強く残っている。
 神話のありもしないウソが描かれていようと、対象が再構築されていようと、絵画は人間の目にそう見えるだけの虚に過ぎない。しかしその虚の内に私たちは美を見ることができる。それは目の知的な楽しみである。

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